コンダクター

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第1章(5)


 アイネ・クライネの顔は美しかった。
 まるでどこかの彫刻家が彫り上げた氷像のような姿。二度と動くことのないその肉体にこしらえられた眠りの表情は、安らかであった。
 だが同時に、ネッドは痛感させられた。彼女は二度と動かない。口を聞くことも。あの、いつもネッドをからかって楽しそうに笑っていた笑顔も、二度と見ることはない。ネッドはただそれだけは確かなものとして理解できていた。
 『コンダクター』。アイネはそう呼ばれていた。それは、最強にして唯一無二の存在に与えられる魔術師の称号だった。“指揮者”はその名の通り、幾多もの魔術という名の演奏家を操り、一つの楽団を作り上げる。その名を冠する者は、魔術教会においてただ一人――アイネにのみ許されていたのだ。
 ネッド……そしてヴェクサシオンが彼女に拾われたのは確か、10を過ぎようかという年頃の頃だっただろうか。かつて魔術教会が参加した大戦の最中に、二人は拾われたのだ。両親の顔を覚えてはいない。二人が生きてきたのは、絶えず紛争が起こっている荒んだ辺境大陸だ。子供とはいえ、一人で生きていく術を学ばねばならない。ヴェクサシオンもネッドも、そうして生きてきた戦災孤児の一人に過ぎなかったのだ。
 アイネはそんな二人を引き取り、自分の子供のように育ててくれた。魔術の基礎を教えてくれたのも彼女だ。12歳になってからは魔術教会で学ぶこととなったが、その後もアイネは自分たちの修行によく付き合ってくれていた。姉として、母として、そして師匠として。
 ネッドはそんなアイネを誇りに思っていた。『コンダクター』の名を冠する最強の魔術師に魔術を教えてもらえるという幸運。もちろん、例えそんな称号がなくとも、アイネを親に持ったことをネッドは誇りに思っていただろうが、それがネッドにとって憧れの意味も含んでいたことは間違いなかった。
 だが……今思えば彼女は、なぜかそのことを喜々として話すネッドを、どこか哀しげな瞳で見ていたような気がする。それは、なぜだったのだろうか? その答えを聞くことは、もう出来ない。
 棺の中に納められた彼女を、ネッドは悄然とした瞳のまま見つめていた。
 シベリウス大聖堂――魔術教会の中でも中心的なこの大聖堂で、アイネ・クライネの葬式は物々しく行われた。頭上高くそびえるステンドグラスには、魔術の創始者と呼ばれるモーヴェンの姿が神々しく描かれている。気品溢れる白髪の老人の姿は、雄大な光を瞳に湛えており、幻想的でもある。まるでその幻想性を表現するかのような音楽が、アイネを見送るべく静かに流れていた。
 式には、魔術教会を担う様々な魔術師たちが出席していた。主たるものは『シンフォニー』の老人たちであろう。『シンフォニー』とは、魔術協会の主幹を務める魔術師のことだ。知見と見聞に長け、膨大な知識と実力を兼ね備えていることがその資格だと言われ、結果的に経験と知識を重んじられるわけだが――ネッドからすれば、要するに魔術師の中でもエリート街道を歩んできた生き字引といったところだ。あるいは死に遅れと言ってもいい。中には真に優秀たる魔術師もいるが、そのほとんどは地位と権力にしがみつく老いぼればかりだ。
 モーヴェンのステンドグラスが見下ろす袂で、美しい鮮やかな花を添えられるアイネの棺。列を成した長椅子に座りながら、それを見つめていたネッドの後ろで、シンフォニーの老人たちがなにやらしわがれた声で話をしていた。
「一体どうしたことだ。彼女が亡くなったのは、彼女の引き取った孤児、ヴェクサシオンのせいと言うじゃないか」
「これは由々しき事態だぞ。もしもこの事が世俗諸侯に漏れたら、魔術協会の、いや、魔術師全体の地位が危険にさらされる。たかだか子供に、コンダクターが殺されたのだぞ」
「だが、どう――」
「ここは――」
「ヴェクサシオンとネッドを――」
 聞く気が薄れてきた。
 分かっていたことだ。『シンフォニー』たちの言うとおり、もしもこの事が世俗諸侯たちに漏れてしまったら、魔術教会自体の地位も危ういものとなるだろう。そもそもが、魔術教会はいまだ新興組織の域を出ていないのだ。魔術教会がその手を拡大させているこのルーベルグ大陸でさえ、いまだ魔術師を忌み嫌う者は少なくない。王国<ブランドベル>はともかく、ブランドベルの地位も狙う他勢力の国家は、これを機に魔術師たちの陥落を企てるかもしれなかった。
 たかが子供二人と魔術教会の地位を天秤にかければ、シンフォニーたちがどちらを選ぶかは目に見えていたのである。そして、その望まぬ期待を裏切らず、シンフォニーたちは保身へと動き始めようとしていた。
 ――だが、構わない。
 ネッドの意識にあるのは、ただ一つだった。その目的に比べれば、そんなことなど些細なことだ。
 俯き加減に考え込んでいたネッドに声がかかったのは、そのときだった。
「ネッド」
 ゆっくりと、顔をあげる。彼を呼んだのは、一人の壮年だった。年の頃は50代後半といったところか。白髪混じりの黒髪の下で、温和な顔が彼を見下ろしている。
 ネッドは焦燥の念に駆られていた自分を落ち着かせた、その声色の主の名を呟いた。
「……ワーグナー神父」
 このシベリウス大聖堂の神父を務める、魔術教会の中でもベテランの魔術師だった。そして彼は、アイネの師でもある。彼女が魔術教会の課程を終えた後も、深い交流を持っていた神父だ。ネッドにとっても……信頼のおける魔術師だった。
「一体どうした? 怖い顔をして」
 まるで孫に向けてほほ笑むのような温和な表情。
「いえ……」
 頭を振って答えるネッド。シンフォニーたちと良い勝負と言える年齢ながらも、いまだに現役の魔術師である神父は、まるで彼の意識を見透かしたように言った。
「ヴェクサシオンのことか」
 一瞬、否定の言葉が喉まで差しかかる。だが、彼に嘘をつく必要もあるまい。それに彼には、もうとうにわかっていることだった。
「……はい」
「彼女が……孤児であった君たちを引き取ってきたときは、私も心の底から驚いたものだ。なにせ、突然のことだったからな。大戦を終えて帰ってきた彼女の横に、君たち二人が寄り添っていた」
「あのときは……異国にやって来た不安のほうが強かったです」
「はは……私も、君たちには怯えられていたな。しかし、なんというか……。私はあのとき、ほっとしたのだよ」
 不思議そうに見返したネッドに、ワーグナーは続けた。
「コンダクターの称号を手にした頃からだろうか。奏言魔術の隋を極めた彼女はいつも……どこか寂しそうな目をしていた。弟子たちの育成に精を出しながらも、彼女の心はまるですがるものをなくした子供のようなものだったのかもしれない」
 そのときの事を目の前にしているかのように、思い起こしながら話すワーグナー。
「あのときの彼女は、とても嬉しそうに笑って君たちを連れてきたよ。彼女にとって、君たちは子であり、宝であり、彼女自身が見出すことの出来た希望だったのかもしれないな。そのときは、このような最後を遂げるとは思っていなかったのだが」
「それは……僕も同じです」
 ぐっと、ネッドは手のひらの肉に食い込むほどに拳を握り、怒りをかみ締めた。憎悪は尽きない。消えた親友の姿が、今も脳裏に焼きついている。
「シンフォニーたちは……いや、魔術教会は、君たちを処分することを考えている。正確に言えば、魔術教会からの追放だ。ヴェクサシオンについては、これ以上の被害が教会に及ばない限り、こちらから動くことはあるまい。君は……どうする?」
「…………」
 ネッドはしばらく閉口していた。思考を巡らせていたせいでもあったが、結局――答えは一つだった。
「僕は、ヴェクサシオンを探します」
「アイネの復讐かね?」
「…………」
 無言で、ネッドは力強く頷いた。復讐は憎しみしか生まない。そんな教えを告げるようなつもりは毛頭なかった。そうでなくとも……少年の瞳に湛えられた哀しみの光を見て、ワーグナーはそれ以上口を開くことはできなかった。
 二人は棺を見ていた。そして、ネッドは気づく。まるで、彼女の最後を見届けるかのように、魔力の光が漂っていることを。ステンドグラスからの明かりと反射しあったそれは、壮麗で美しい。
 気づけば――彼女を送り出す葬送歌は、魔力の音階へとその役目を任せていた。


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