コンダクター

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プロローグ


 時が止まったかのような静寂が、そこにあった。
 空気はピンと張り詰め、喉は渇ききってしまっている。動くものは、窓の隙間から忍びこむ風によって、はためくカーテン。そして、ナイフから滴る真っ赤な血だけであった。
 少年の瞳は、ナイフを握る親友を見つめていた。
「…………」
 唇は言葉を発せない。
 目の前の現実が信じられず、少年の身体は漠然としたように震えていた。
 親友の目の前。床に倒れているのは女性だった。ピクリとも動かず、床に広がるのは刻々とあふれ出す血液である。それが意味することを、本能的に少年は理解する。
 ――死。
 驚愕、疑問、そして恐怖が、少年の心を襲った。背中、手、額……冷えた汗が少年から滲む。頭は目の前の光景を理解することを拒んでいるが、身体はそうもいかない。
 目の前のそれは何を意味しているのか。
 確かなことは一つあった。大切な人の死が――少年の前に忽然としてあるということだ。
「やあ……ネッド」
 カーテンの隙間から光が差しこんだ。
 わずかに漏れたその月明かりが照らした親友の顔は、とても幸せそうだった。衣服や頬にあびている返り血が、その表情の不気味さを物語る。
 見たこともない親友の表情に、少年――ネッドは、言いようのない恐怖を覚えた。なにより彼が信じられなかったのは、親友の声が自分の知っている声ではなかったということだった。
 曇ったガラスを通しているかのよう、不気味な響きを帯びていた。ネッドの知る限り、少年の声は美しく透き通った声のはずだったのに。
 そんな記憶の中の声と、この少年の声は、全くの別人と言えるほど、異なった響きをしていた。
「どうしたんだよ、ネッド。……入って来いよ」
 親友は、笑みを崩すことなく言った。
 両手を軽く広げ、ネッドを迎えている。さながら、舞台に立つ役者のような身振りだった。
 この光景が理解出来ない。薄暗い部屋の中にあって、ネッドの心情は不気味さを増した。
「なんだよ……これ……?」
 ようやく、絞りだした声で問いかける。
 しかし目の前のそいつは、質問の意味を図りかねるようにきょとんとした顔でネッドに返答した。
「なにって、アイネだよ。我が師であり我が母でもある、偉大なるコンダクター、アイネ・クライネさ」
 そう……アイネ。
 ネッドは、信じたくなかったそれが確かにアイネであると告げられた。親友が見下ろす女性は、血を流している。
「これでもうコンダクターはいない。僕こそが、いや、僕らこそがコンダクターだよ、ネッド。分かるかい? この僕らがたった今、コンダクターになったんだ」
 分かりたくもない。
 アイネは、ネッドにとって全てであった。道であり、光であった。かけがえのない存在だったのだ。それを、こいつは無に返したのだ。何もかも、消し去った。
 憎悪に満ちた怒りが、ネッドの心を支配していた。それに気づいているか、いないか。少年は月明かりを背に受け、神託でも唱えるかのように告げた。
「アイネという楔は外れ、そして僕は自由になった。君もだ、ネッド。君を縛るものも、もうない。僕たちはついにコンダクターになったんだ。これは素晴らしいことなんだぜ?」
 ネッドは打ち震える身体を隠すように俯きながらも、親友の言葉を一言たりとも聞き逃さなかった。この、彼女を殺した親友。いや――悪魔の言葉を、脳裏に刻んでおこうとしたのである。
「それで……彼女を殺したのか……」
 ネッドの口から漏れた声に、親友は目を丸くした。
「ああ……そうだけど……?」
 何を言っているのか、とでも言いたげだ。彼は、全く意に介してすらいないのだ。ネッドの持ち上げた瞳が、少年を睨みつけた。
「お前は……お前は……!」
 ネッドには、今の自分の顔がどんなものになっているのか想像はつかない。しかし、感情は怒りと憎しみで高ぶり、殺したいほどの殺意を持っていた。
 親友であった少年の表情が、感嘆に変化した。
「へえ……お前ってそんな顔もできたんだな。……けど、気に喰わないって感じだな。彼女を殺したことが、そんなにムカつくか?」
「当たり前だろ……!」
「そっか……」
 少年はそれまで血の雫を落としていたナイフをふらっと持ち上げると、それを軽やかに回転させた。考え事をするような表情は、すぐに呆れへと変わった。
「なら、別にいいや」
「なに……?」
 憎悪の表情ながらも眉をひそめたネッドに、少年はため息をこぼした。
「お前に期待した僕が馬鹿だった。別にまあ……コンダクターは僕だけでいいよ」
 肩をすくめて少年は言った。大した問題でもなさそうに。
「それより彼女……このままでいいのか?」
 少年はそう言うと、アイネへと目をやった。
 はっとなって、ネッドは急いで少年の横を走り過ぎ、彼女に駆け寄っていった。少年への怒りで我を見失っていた自分を叱責する。
 だが、彼女を抱えると、その身体はすでに酷く冷たくなっていた。寒気すら覚えるほどに、人の体温が感じられない。そう――これは死体だ。すでに、事切れている。
 彼女の唇は、もう開かない。彼女の瞳は、もう優しい色で自分を見つめてはくれない。彼女の灯火は、既に消え失せていたのだ。彼女の笑顔は、もう――。
「われ奏でるは、さすらう若者の歌」
 少年の歌うような詠唱が、背後から聞こえた。
 移送魔術……! とっさに振り返ったとき、少年の身体はすでに床から広がる光に包まれていた。
「まて……!」
 とっさに手を伸ばして、ネッドは少年を捕まえようとした。
 光に包まれたままの少年は、彼を見つめ返す。
「じゃあな、ネッド」
 最後にネッドが見た少年の顔は、歪んだオブジェのような表情だった。
 光が中心に集まりながら消えていく。光が消えると、その分だけ少年の肉体も消えていき、やがて――手は何もない宙を掴むのみだった。
挿絵:プロローグ  それまで……そこにいたはずの少年はもういない。あとに残されたのは、ネッドと、そして冷たくなったアイネだけ。
 くずおれたネッドの頬を、雫が流れた。次々とあふれてくる雫は、やがて線となって、唇にその味を伝えてくる。
 一体、どれだけの時が流れたのかは分からない。長くもあるようで、短くも感じられたその時間に、ネッドは涙した。
 抱きかかえる彼女の頬にも、ネッドの涙はぽとりと落ちる。のどを鳴らす嗚咽のみが、月明かりの差す部屋に響いていた。
 ネッドは立ち上がった。
 もう二度と動くことのない彼女の身体を抱えて、彼は天を仰いだ。そこにあったのは天井であったが、彼の瞳は、その先にある虚空の彼方を見えているようだった。
 そう――あの、親友であった少年がいるはずであろう先を。
 そして。
「ヴェイイイクウウウウゥゥ!」
 天に向かって――ネッドは高らかに吼えた。


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