本日ハ晴天ナリ

 やる気がなく、人に好かれていない――だが決して不良ではない。栢山(かやま)はそんな高校生であった。制服でさえ、だらしのない格好をするわけではないが、優等生のように品行方正なキツキツの着方ではない。総じて言えば中途半端。それが、栢山が自分自身を客観的に観たときの印象であった。
 そんな栢山のお気に入りの場所は、学校の屋上である。カツ、カツ、と階段を上り、重い金属製の扉を開けば、そこに無限の空が広がっている。だが、栢山はそこで終わらない。更に空に近い場所へと、扉の横の梯子を上り、屋上のそのまた更に屋上となる場所へ行くのである。気分は雲の上の天上人だ。
 栢山はごろりと寝転んだ。すると、コンクリートのひんやりとした冷たさが背中に伝わってくる。今日は風も吹いている。ましてや秋に入ろうとする頃だ。冷たい空気なのも当たり前である。好んで屋上に来る奴などいない。もちろん、栢山を除いては。栢山とて、寒くないわけではない。秋から冬にかけて、屋上に行くのは出来れば遠慮したいのである。だが、逆に言えば、屋上に他人が来ることがまったくないのもまた、秋から冬なのである。栢山は寒さと一人になりたいくすぶる気持ちを天秤にかけたとき、気持ちに傾く性質なのだった。
 栢山が雲を見上げながらあくびをしていると、屋上のでっぱりへと続く壁に張り付いたはしごから、音が聞こえてきた。それははしごを登ってくる物音である。またあいつか……。はしごからひょこりと現れたのは、黒髪の頭部と、秋口にも関わらずブレザーを着ていないワイシャツの女子制服。
「ん……よっと」
 踏ん張りを利かせて登ったため、頭部によって顔が隠されていた。それでも栢山は、自分の紛れも無い予想に基づいて顔をしかめる。この時間に来るのは、間違いなくあの女だ。
「おっすっ」
 予想通り――楠屋幸恵(くすや ゆきえ)は顔を上げた。
 一週間の半分は栢山の邪魔をする少女、それが楠屋幸恵である。当の本人は違うと語るが、栢山は騙されない。こいつは性根が腐っているのだ。一般的に彼女の顔は整っており、美人の類に入るだろうが、それもまた騙されてはならないと栢山は語る。栢山からすればその明るい表情はとぼけた天狗のようであり、はつらつとした分け隔てない性格は、ただ知能レベルの低い子供なのである。
 楠屋の腕には部長の腕章があり、手にはリポート用のマイクがあった。そんな学生には不似合いな装備の理由――主に栢山に――を聞かれたら彼女はこう答える。放送部の部長だからだと。
 彼女の姿を見つけたことで栢山は別段驚かなかった。しかし、物憂い気分にはなったが。なぜいつもいつもこいつは俺のところに来るのだろうか。随分と前から思っている疑問を投げかけるが、それに対して答えが返ってきたことは一度もない。いつおの質問を、彼は聞いた。
「お前、なんでいつもここにくんの?」
「放送部に入らないかな、と」
「入るわけないじゃん」
「諦めなければ夢は叶う」
 少女は不敵な顔でぐっと親指を立てた。
 これだ。いつもこれなんだ。栢山はつい顔を手のひらで隠してぼやいた。
 栢山は思い出していた。高校生になって楠屋と同じクラスになってからというものの、彼女はいつも自分を放送部に誘ってくる。中学生までは平穏無事に過ごしていた有意義な生活を、この害虫はことごとく打ち砕くのだ。
「で、今日もお昼はここで過ごすの?」
「……ああ、そうだよ」
 栢山は上体だけ起き上がり、ハイハイ歩きで近寄ってきた楠屋は、彼の隣に腰を下ろした。
 おい、そこは俺の空間だぞ。
 しかめっ面で睨みつける栢山を尻目に、彼女は伸びをしてコンクリートの床に身体を倒す。
「んー、良い天気だねー」
「お前がいるからぶち壊しだがな」
「あ、そんなこと言う? これだからナマケモノは……」
「言っとくけどな。俺はなまけてるんでも、ましてや意地張ってるわけでもねぇぞ。俺は一人が好きなんだ」
 楠屋の顔を覗き込み、栢山はなるだけ唾を落とさないように言った。
 きょとんとしていた楠屋は栢山の顔をどかし、飛び上がるように起き上がった。仁王立ちした彼女は眼下に広がる樹木とグラウンドを見つめて振り返り、真剣な様子で栢山に言った。
「そんな一人が好きな貴方は、ここで立ち止まってるわけにはいかないのよ」
 普段は調子付いている彼女の真顔に、栢山は一瞬だけ心奪われた。そして、その心は文字通り鷲づかみされたかのように、彼女に引き込まれている。
「貴方には、やるべきことがあるはずよ。――さぁ、放送部へっ!」
「……は?」
 栢山の手を握った楠屋は、空に向けてもう片方の手を広げた。さながらそれは一流劇団の舞台演技のようである。栢山は固まっていたが、やがて溜め息をこぼすと楠屋の手を振り解いて自分の鞄をひったくるように掴み、はしごへと向かった。
「あれ? 栢山くーん」
「あほくさ」
 そう言い残した栢山は、一度も楠屋を振り返ることなくはしごを降りていった。
 少しだけ手に残った楠屋のぬくもりにドキドキしていたことは、心の中だけに留めておこう。栢山は、そんなことをふと思った。

1


 思えば事件は高校に入学したときから一週間後のお昼休みに始まった。自己紹介も無難にこなし、決して目立たず、それでいて薄くなりすぎず、順調に何にも縛られない学校生活を送ろうとしていた矢先のこと。
 朝に弱い栢山はあくびを噛み締めながら登校していた。まだ不慣れな高校生活といえど、登校してから授業を受ける流れは中学校とそう変わりない。順応性の高い人は、もうすでに一緒に登校する友達を見つけているようだ。周りの同じ登校民族の流れに乗って玄関門をくぐったとき、誰もがぱたりと足を止めた。それは、栢山でさえも例外ではなかった。
「さあさあっ! 高校に入学したら血と汗と涙の結晶を作り上げようではないかっ! 来たれ新入部員! 来たれ有能部員!」
 校舎玄関前の広場、壇上に登ってメガホン片手に力説していたのは、一人の少女であった。誰もが何事かという顔をしており、避けて通っていく者もいれば、走り抜ける者もいた。確実に言えることは、決して誰も興味をそそがれていないということである。新入生勧誘日はもう終わっているのだ。何を思って突然広場で演説を始めたのか。
 他の生徒達が見て見ぬ振りをするのに見習って、栢山も目を合わせないように歩き出した。栢山の常識の中では、こんな人間など存在しない。あれはきっと春の陽気に誘われた妖精なのだ。栢山はそう言い聞かせた。だが、人間とはかくも悲しきものだろうか。横からメガホン越しに聞こえてくる言葉に、意識だけは引っ張られるのである。どこかで聞いた声のような……。栢山はわずかな興味を持って、少女をはっきりと見た。
 それが間違っていたのである。同じクラスの少女だと気づいたときには、既に彼女も栢山を見ていた。それも、視線はぶつかりあっている。
 栢山は嫌な予感がした。現に、身体はそれを警告しているのか、額が汗ばんできたのである。
「どっかで見たような……」
 楠屋はそんなことを呟いていた。
 やばい。
 栢山は即座に判断した。すでに敵は我が城に攻め込もうとしている。今すぐ態勢を整えねば……! 頭の中の警告音に従って栢山が玄関まで走りぬけようとしたとき、背後から「あーっ!」という楠屋の声が響き渡った。
「か……なんとかくん! 同じクラスのっ!」
 その声にぎくりとして立ち止まったが、「俺は、か、なんとか君ではなく栢山永一(かやま えいいち)えいいちなので、違います」とばかりに歩みを続けた。が――いつの間に近づいたのか、楠屋はがっちりと栢山の肩を掴んでいた。
「いやー、良いところで出会ったわ。放送部に入らない?」
「遠慮しときます。では」
「こらこら、そんなに急がない」
 どこにそんな握力があるというのだろうか。見た目の非力さとは裏腹に、楠屋は栢山を離さない。
 栢山は後ろを振り返らなかった。もし振り返って楠屋の顔を見てしまったら、彼女の強引な勧誘大作戦にどんどん引き込まれてしまいそうな気がしたからだ。
「いまならなんと副部長の座も空いてるわよ?」
「僕、権力も肩書きもいりませんので」
「それなら一般部員でもいいわよ」
「そういう問題じゃないです」
 栢山の必死の抵抗も、楠屋の強引さには負ける。彼女は栢山を振り返らせると、白紙の入部届けを突き出した。
「さ、ここにサインして」
「いや、入部しないって」
「なんでよー、どうしてよー、部活って言ったら青春じゃない? しかも放送部よ放送部。お昼に番組持てるのよー!」
 楠屋は駄々をこねるように言った。
 栢山は楠屋のことを大してよく知らないが、この時点で分かったのは彼女が融通の利かないお子様のような性格だということと、関わったら面倒臭い相手だということだ。逃げ出そうとする栢山を必死で食い止める楠屋。ようやくそこに救いの手が差し伸べられた。
「こらー! そこで何をしとるかぁっ!」
「げ、やば……」
 強面の体育教師である本田が職員室の方角から怒声を上げていた。楠屋はそれに気づくと、そそくさと荷物をまとめて逃げ出す準備をした。その速さには栢山も驚きである。
「じゃ、じゃあ、入部考えといてねっ!」
 楠屋は唖然とした栢山に言い残すと、校舎へと去っていった。
「あっと、そうだ」
 だが、ふと何かに気づき、振り返る。
「名前、なんだっけ?」
「……かやま」
「おっけー、栢山君。じゃーねー」
 楠屋は手を振って、校舎の中に消えて見えなくなってしまった。栢山はいつの間にか手に持っていた白紙の入部届けを見下ろし、空を仰ぎ見た。
 まるで台風のようであった。そうとも、これは自然災害だ。自然災害は思わぬところからやってくるのである。いちいち気にしていては始まらない。栢山は入部届けを折りたたんで、律儀にポケットにしまいこむと、チャイムが鳴らぬうちに教室へと急いだ。

2


 局地的台風は栢山大陸の上で半年以上に渡って吹き続けていた。そしてそれは、生徒達の周知の事実であった。いつしか栢山はやる気のない奴ではなく、楠屋に追いかけられている不憫な奴という印象に変わっていたのである。で、あるからして――放課後になっても吹き続ける楠屋台風がどれだけ栢山の上でうねりを上げていたとしても、他の生徒達にとっては特に関係のないことなのである。
「ちょっとー、栢山くーん」
「あん?」
「ほら、あなたの大好きな入部届け!」
「俺はヤギかよ」
 栢山は呆れ返ってすたすたと先へと歩いた。
 それを楠屋は追いかけてくる。時刻はもう夕方を過ぎようとしていた。オレンジ色の太陽は徐々に隠れようとしており、さながらそれは恥ずかしがりやの子供のようでもあった。栢山は後ろから何かゴチャゴチャと言っている楠屋の言葉を無視して、この半年以上の学生生活を振り返っていた。それなりに楽しかった。それなりに満足であった。楠屋が関わらない以外は理想としていた目立たない生活が送れたし、普通に友達も出来た。だが、思い出すことは色々とあるが、その全てにおいて関わってきているのは楠屋であった。体育祭のとき、リレーで横を走りながら入部届けを差し出していたのも彼女だったし、障害物競走のときには、指示が書いてあるはずの紙がなぜか入部届けにすり替わっていた。それを見た生徒達は大爆笑だったが、栢山からすれば何とも面倒臭い事態である。それ以外にも、学園祭では放送部の特権を生かして、「栢山永一の秘密カウントダウン100」を放送したのである。そんなことが出来た背景には、ちゃんと放送部に何名かの部員が入部していた事実があった。
 だとしたらもう、嫌がらせだよな……。
 栢山が入部しなかったとしても、別に部の存続には関係ないのである。
「だから、あたしは思うわけですよっ! 人という字は支えあっているのではなく、むしろあれはキスに見えなくもない気が――」
「――なぁ」
 いつの間にか脱線した話をしていた楠屋に、栢山は振り返った。
 楠屋はピタリと口を止めて、驚きの表情で栢山を見る。楠屋にとって、栢山から話しかけられたのは、これが初めてだった。
「もう、いいだろ?」
「え?」と、楠屋は声を洩らした。
「放送部も、部員入ってるじゃんか。俺が入らなくたって問題ないんだしさ。もう、つきまとう必要もないだろ?」
 栢山は言った。彼は出来るだけ穏やかに、笑顔を浮かべて言ったつもりだったが、どうにも現実には上手くいかず、引きつったような顔で緊張で心臓がバクバクと鳴っていた。というのも、さながらそれは彼氏彼女を振るような心境に似ていたからだ。他人を突き放す言葉は、残酷でいて、気の進むものではない。
 楠屋の顔は一瞬だけ、陰りのある悲しげな表情を見せた。彼女は気づかれないようにすぐにいつものとぼけた笑顔を作った。だが、栢山は気づいていた。いつの間にか栢山は、楠屋の一瞬の表情の変化も見逃さないほどの理解を持っていたのである。不可抗力とはいえ、半年以上も一緒にいれば当たり前だった。
「そうだね。うん、確かに、必要ないね」
 楠屋は笑顔で言った。
 栢山はどうにもやりきれなかった。まるで、自分がひどく嫌な奴なのだと言われているようである。もちろんそれは自分の被害妄想であるが、自己嫌悪に至っているのは間違いなかった。だから、栢山はそのやりきれない思いを言葉にした。
「なんで、俺を誘ったんだ?」
 楠屋は栢山をじっと見た。栢山はその瞳にある思いを探ろうとしたが、思えばいつも彼女の瞳を見ても、心中が分からなかった。栢山は妙な角度から世の中を見ているせいか、観察力に優れていた。瞳や仕草を見れば、その人間の思いが漠然とだが理解できた。栢山は今になって気づく。俺は、こいつが分からない。こいつを見てると不安になる。栢山の手のひらに汗がにじんでいた。
 何か考え込むように俯いていた楠屋は、ようやく顔を上げた。
「よく分かんない」
 その顔は、いつもの楠屋のとぼけた顔だった。
 栢山は「はい?」とついつい、いつもの調子で首を傾げてしまった。すると、楠屋は栢山を追い越して歩きはじめる。栢山は釈然としないまま、楠屋を追うように歩いた。
「なんか、栢山くんを見てると、ついついって感じかな。ほら、勧誘のときに最初に会ったでしょ?」
 楠屋は振り向いた。栢山は、それに応えて頷く。
「だから、どうも頭に残っちゃってねー。ほら、一目惚れってやつかな」
 楠屋は笑った。栢山は一瞬だけだがその笑顔に魅せられた。だが、すぐに頭を振って払い去る。思った以上に可愛かったのは、見なかったことにしてやる。
「それにさ――」
 思いを振り払っていた栢山は、楠屋を見つめた。
「なんか、栢山くんが楽しくなさそうに見えたしね。あたし、おせっかいだからさ。入部してくれたら、楽しくなるかなって」
 栢山は海の中に飛び込んだかのような、驚きと心地よさの妙な感覚に包まれた。それはつまり、見透かされた気分である。
「楽しくなさそうだったか?」
「うん、無理してる感じ。なんか、曇り空みたいなね」
 栢山は空を見上げた。
 夕闇に近づく空が広がっている。確かに、俺はあの空じゃない。思い出すのは、楽しいと思えた日常の平凡な生活である。俺は心から楽しんでたのか? 目立たず日に出ず生活を送ることは、常に幸せな日々なんだろう。だが、そこに楽しさが満ちているのか、よく分からない。
「だからさ、照らせればな、と思って。曇り空を太陽で照らせれば、きっと楽しいかなーってね」
 楠屋のくだらない物言いに、栢山はくすっと笑った。
 自分で太陽って言うかよ。

3


 乱雑に置かれているコードの束の真ん中に、テーブルとマイクがある。そして、周囲には何やらプロフェッショナルが扱うような難しい機材が大量に設置されていた。そう、放送室である。
 栢山は勧誘日のときにもらった入部届けに自分の名前を書いて楠屋に提出した。すると、彼女は昼休みに入った途端、栢山の腕を引っ張って放送室に向かった。扉を開けると、そこにいたのは見知らぬ部員が五人ほど。人見知りの栢山には苦しい空気である。そして、現在、彼は椅子に座ってマイクを目の前にしている。
「あーあー……」
 マイクの向こうにはにやにやとしている楠屋。
 失敗したかな。栢山はそう思いながらも、心のどこかでほっと息をついている自分がいた。まるでそれは、晴天の青空の下で、太陽に照らされている心地だ。
「えー、マイクテス、マイクテス、本日ハ晴天ナリ」
 曇り空は晴れ渡るか。栢山は笑顔の楠屋は見ていると、それも悪くないと思った。