早朝の寒さと猫の餌

 窓の外ではなにやら雀の鳴き声が楽しげに響いていた。それ以外は何も聞えない。聞こえるとすれば、布団の中でもぞもぞと動いてしまった自分の足の音は聞こえていた。
 早朝は寒い。もう春になっているというのに、まるで冷蔵庫の中にでもいるような肌寒い空気が身体を撫でてくる。僕は思わず布団にくるまった。もっと寝たい、と思いつつも、寒さに気づいてしまったら、我慢して二度寝するのも煩わしい。
 起きろってことか。
 きっと神様からのお告げなのだろうと前向きに考えて、僕は一気に布団をめくり上げた。先程の何倍もの寒気が身を激しく打ち、身体がぶるぶると震えた。再度布団にくるまりたい欲求に駆られる。だけどまだ、ここで諦めては講義に遅れてしまうと欲求を一蹴して自分の身に鞭を打つのが僕の良い所だ。講義中に寝てしまうこともあるが、とりあえずは出ておく。
「優柔不断」とはまさにこのことかな。
 ため息一つ、洗面所へと足を運んだ。洗顔と髭剃りを早々と終わらせて、朝食のパンをトースターに入れる。三分間の間にホットミルクとマーガリンを用意しておく。いつもの朝食スタイルだ。
 でも、その日はいつもとは違った。特に大きな変化じゃない。いつも聞こえてくる雀の鳴き声のほかに、別の泣き声が混ざっていただけだ。
「猫?」
 僕は窓を見た。
 物干し竿やその他の布団を干すためのハンガーが集まるベランダに、そいつはいた。黒と茶色の毛色をしている猫だった。瞳はどこか愛くるしく、ペットショップで売られていそうな愛嬌があった。僕と目が合うと鳴くのをピタリと止めて、じっと見つめてくる。普段なら、きっと気にせずにいつも通り朝食を食べるだろう。でも、僕はベランダに近づいた。……気になったのは、そいつの右耳が最初からなかったかのように消えていることだった。
 近づいてみてようやく気づく。彼の耳は別に最初からなかったわけではない。きっと何か事故か病気によって、途中から生えていないのだ。僅かにでっぱりとなってたんこぶのように飛び出ているのが、彼の右耳の跡だった。
「いやに礼儀正しいな」
 ベランダの柵の上で、猫はちょこんと座ったままこちらを見据えてきていた。なんとなく、良い気分ではない。まるで監視されるか選定されているか、そんな嫌な気分になる。だから僕は、ベランダの窓を開けて彼と対面することにした。
 猫は一声、そして二声、唸った。近付くな、と言っているのがよく分かるものだった。
「逃げないのか?」
 猫は警戒心が強い、と思う。道端で見かける野良猫はいつだって人が近付くと反射的に逃げていく。だけど、目の前の猫は僕をじっと見つめたまま唸りはしても、逃げ出す素振りは見せなかった。
 僕は思い出していた。学校の片隅で、ただじっと空や人を眺めていた。誰かに理解されたくないと思う心の影で、同級生に訴えかけている。誰もが僕をおかしな奴だという目で見ていた。もちろん、僕自身もそんな気がしていた。教科書が破られることはなかった。でも、教科書を読んだ後の笑い声と、授業後の報復はひどかった。
 訛ってたんだ。ずっと地方に住んでいたから、都会のことなんてよく分からないし、標準語が喋れなかった。だから僕には仲間も友達もいなかった。先生なんてクソ食らえ。授業以外の時間は無関心そのものさ。
 猫が再び唸った。
 僕は自嘲めいた笑みが浮かび、冷蔵庫の中を調べに戻った。中には、牛乳とゆでてラップをしてあったササミがあったので、それを皿の上に盛ってからベランダに置いた。彼は食料と僕を交互に見つめていた。
 そりゃ、誰かがいたら食べたくないよな。
 僕はベランダを閉めて、彼だけの空間を差し出した。すると、ふいに柵から降りてササミと牛乳を食べ始める。よほどお腹が空いていたのだろうか。
 彼がエサを貪りはじめてから、僕はいつも通りにテレビを見ながら朝食を食べた。テレビでは朝のニュースをやっていて、なにやらまた有名芸能人が薬物で捕まったとかなんとか……。
 全く、世間に比べてこっちは平和なもんだよ。
 朝食をペロリと平らげて、着替えと講義の準備を追えた頃、再びベランダを確認した。そこにはもう猫の影がなかった。残っていたのは、ササミと牛乳の皿だけ。ササミの欠片がぐちゃぐちゃに散っており、礼儀は正しいけど食事のマナーはなっていないな、と思った。
 残された皿をシンクに置き、僕はバックを背負ってアパートを後にした。



 早朝の凍った空気をなんとか払いのけて起き上がり、ベランダに視線を送れば奴がいる。茶色と黒の毛色をしたあいつだ。窓を開けて手を伸ばそうとすると、すばやく唸って威嚇してくる。そのくせ、じっと柵からは動く気配がない。
 なんつー、勝手な奴だ。
 僕はひそかにそいつのことをササミと呼んでいた。もちろん、発想は初めて出会った日のエサからだ。その日からというものの、ベランダに視線を向けるたびにササミの姿を見つけてしまう。
 動物というものは、一度覚えてしまったエサ場を忘れないらしいが……、できればこの場所は忘れてほしかった。
 僕は自分の朝食を用意するついでに、ササミのための牛乳と夕飯の残り飯を用意する。放っておけないのが、僕の「優柔不断」な性格の表れなのだろう。自分でも馬鹿だと思うさ。どうせアパートだから飼えるわけないのに、エサをやるなんてね。
 窓を開けても唸るだけで近付いてこないササミのために、エサを置いたら窓を閉める。ササミはようやく自分だけの空間になったとき、ベランダに降り立ってむしゃむしゃとエサに貪りつくのだ。
 それを横目に、僕も朝食をいただこうじゃないか。
 どうだい? ササミ君よ。人間様の夕食と同じものを食べてる気分は。さぞかし満足なんじゃないか?
 こいつの腹が立つところは、エサを食べたらいつもそそくさとどこかに行ってしまうことだった。エサをもらう前は礼儀正しいくせに、食べ終わったらもうさようならだ。
 でも、その日のササミは平らげた皿の前でちょこんと座ったまま、何かを待っているようだった。食べた後も座っているのは初めてのことである。
 僕は不思議に思って窓を開けた。ササミは唸ることもなく、むしろ甘えるような愛くるしい目で何かを訴えて、一声鳴いた。
「もしかして……おかわりか?」
 僕は平らげられた皿を持って台所に戻り、再びエサ盛りつけてササミの前に差しだした。
 すると、ササミは自分だけの空間でないにも関わらず、エサを食べはじめたのである。
 その様子を見て、僕はどこか少しだけ哀しくなり、そして嫌な気分になった。近所の猫の群れの中に、ササミを見かけることはない。僕がササミを見かけるのは、この早朝のベランダだけのことだ。
 僕だってそうだ。近所の駄菓子屋に僕の姿はなかった。学校帰りの子供たちが遊ぶ公園に、僕の姿はなかった。誰かが冒険しようと言った、外れにある小さな森の中にも、僕の姿はなかった。だから、僕の姿を町の人が見かけるのは登下校のときぐらいのものだった。きっと、何か救いがあったなら、僕だってそれにすがりついていたさ。
 ササミが僕を見上げた。
「食べ終わったか? ほら、じゃあもう帰れ」
 しっしっとササミを追い払って、僕は窓を閉めた。ベランダの隅で、ササミがやはり僕を見上げていた。
 そんな目で見るなよ。
 心の中の吐き捨てた声が聞こえたわけではないだろうが、ササミはベランダから去っていった。



 ササミと出会って数週間が経ったある日。僕は彼に会えなかった。
 彼の大きさでは、ベッドでぐったりと寝込む僕の姿が見えない。もちろん、僕だって彼を確認できない。
 なんてこった、熱があるよ。そう気づいたのは一昨日のこと。それでも講義には出席していたのだが、ついにはダウンする頃合いがきてしまった。何事も無理は禁物ということである。定期的に電話をしてくる母親は、寝込んでいることを知って大変心配していた。親に心配をかけることは駄目な証拠だ。まだまだ大人にはなりきれてないな。
 ベランダを見ようとしても、窓の外まで確認できない。今頃、ササミは何をしているだろうか。
 僕はとにもかくにも睡眠をとった。気分の悪さから、泥酔したようにぐっすりと眠りにつくことができた。
 夢を見た。頑張って標準語を覚えようとして、同級生の会話に耳を傾けている夢だった。唯一の安らぎの場でもあった保健室で、先生に標準語を習うこともした。まるで外国語を覚えているような気分だった。もちろん、外国語よりは遥かに簡単なものだけど。
 みんなの会話に少しずつ参加していけた喜びは、忘れることがない。今では方言だって標準語だってお手の物さ。
 みんなと公園で遊びつかれて家に帰る頃――僕は目覚めた。
 寝汗をびっしょりとかいた気持ち悪さと、いくぶんか良くなった気分はミスマッチだった。
 ベッドから起き上がり、まだ少しだけふらつく身体を奮い起こして台所に向かった。その途中、ベランダを見ると、空は夕焼けに変わってオレンジ色の明かりが部屋の中に差していた。
 綺麗なもんだなぁ。
 そんなことを思ったとき、ベランダから、カタッと、音が鳴った。そして、そこに映る影を見つける。その影は明らかに猫の形をしていて、僕はなぜか妙に嬉しくなって、急いで窓を開けた。
 でも、そこにササミの姿はなかった。わりに、見るだけでも気味の悪い、ネズミの死体が捨てられていただけだ。
「ササミ?」
 返事はなかった。
 でも、はっと視界の端で見える姿に気づいて面を上げる。遠くの一軒家の屋根の上に、茶色と黒の毛色をした猫が座っていた。
「ササミ!」
 ササミはひょいと屋根から降りて、姿を消した。
 久しぶりに見た彼の姿に、僕はどうしてか寂しさと、嬉しさを感じていた。右耳のない猫は、僕にネズミを食べろとでも言いに来たのだろうか。
 頑張れよ。
 近所の群れにササミを見つけることを祈りながら、僕はネズミをビニール袋に包んで窓を閉めた。
 それ以来、彼が僕の部屋にやってくることはなかった。