ねずみ色クレヨンとありがとう

 最後、車の後部座席から鏡越しで少女の言った言葉。それは別離の言葉か。あるいは焦燥の言葉か。少年には分からなかった。
 徐々に遠近感のせいで小さくなりつつある車を、少年はただ見つめるしかなかった。
 涙なく、右手に握ったクレヨンの感触を感じて。
 人気のない昼間の道路では、少年以外に誰もいない。元々田舎だからもあるが、その日は一段と誰もいなかった。
 既に少女を乗せた車は視界から去っており、少年はクレヨンを握った手に視線を向けた。
 開くとそこには、暗雲にも、セピアにも取れる鮮やかな灰色があった。
「…………ねずみ色」
 しかし、少年が灰色と呼ぶことはない。
 灰色ではなく、ねずみ色。それがこのクレヨンの色である。
 ずっと握っていたせいか溶けかかったクレヨンを再び握り返し、少年は少女の去っていった方から背を向けた。
 人々の心、まして少年の性情など分かる筈もない日光は、夏の暑い日差しをただただ放っていた。
 幼い時の夏の記憶。それは涙ない、ただの別れであった。


「麻生君。まだ残ってたの? もうほとんど下校したわよ」
 声が聞こえ、座っていた麻生誠二(あそう せいじ)がキャンバスから顔を向けた先には、伊藤穂波(いとう ほなみ)がいた。
 その姿は、一介の高校生にしては中々にして端麗であろう。長く滴り落ちる黒髪はゴムで纏めてあり、夏服の制服は活発そうな彼女には似合っている。
 もっとも、誠二は彼女の性格、性質を完全に把握しているわけではない。付き合っているというなら別だろうが、そんな関係ではないことは一目瞭然だ。
「うん。まだ描き終えてない作品があるから、ちょっとね。すぐ帰るよ」
「そんなこと言って、この前も職員巡回ギリギリまで残ってたじゃない。怒られるのは生徒会の私なんだからね」
 呆れた溜息を吐いて、穂波は誠二の横まで歩いてきた。
 誠二の格好も同じく夏服であるが、簡単に整えた精美な黒髪もあり、彼の場合はどちらかというと優男という言葉が似合いそうな雰囲気である。穏和、と言ったほうが語呂は良いのかもしれないが。
「あいかわらず使うんだね、それ。さすが『灰色の誠二』」
 穂波は誠二がキャンパスに描こうと持つ、一つのクレヨンを指差した。
「うん。これは、僕の絵に欠かせないから」
 油絵の中ので使う、たった一つのクレヨン。それこそ、誠二が美術部で『灰色の誠二』と呼ばれる所以であった。
 右手に持つ灰色のクレヨンを、頭の構想通りに流れ描いていく。
 別に約束したわけでもない。束縛の理念でクレヨンを使っているわけではないが、無性に、自然に、誠二は絵にクレヨンを使うようになっていた。灰色のクレヨンのみを、油彩、水彩、パステル、たとえどんな絵であろうと、使うようになっていた。
 それはもしかしたら、あの記憶にある彼女へのメッセージなのかもしれない。
 そんな風に誠二は時々思ったりしていた。
「これって肖像画? 女の人みたいだけど」
「……伊藤さんは、灰色のクレヨンを何て呼ぶ?」
 穂波の質問をはぐらかすように、誠二は聞き返した。その手と視線はキャンバスから離れることはなく、流れるように動いている。
「灰色のクレヨン……? 灰色じゃないの?」
「僕はねずみ色、って呼んでる」
「ああ。そういえば、小さい頃はそんな風に呼んだりする人もいたね」
 その穂波の言葉を聞いて、誠二は唇からクス、と漏らした。
 更にそれを聞いた穂波は、自分の返答が馬鹿にされたのかと少々顔を顰めたが、実際には誠二が笑ったのは穂波のことではない。昔、と誠二は言ったが、先ほどの通り彼はいまでも灰色のクレヨンをねずみ色と呼ぶ。人からは灰色と呼ばれるけど、自分で口に出すときは、決して灰色とは言わない。
 だから穂波が言った小さい頃と言うのが、まるで自分が幼いように感じて、少し可笑しかったのだ。
「うん。今日はここまでにしようかな」
 誠二は頷いて、灰色のクレヨンを油絵の具と一緒に閉まった。
「完成したの?」
「ううん、まだ完成はしてないけど……。別に、何かのコンクールに出す絵でもないし、また今度描くよ」
 輪郭部分など、薄く色を塗った状態でしかないその未完成な絵を裏返し、誠二は椅子から立ち上がった。
「じゃ、そろそろ行こうかな」
「まったく、いつもこのぐらいの時間で済ましてくれれば、私も苦労しないんですけどね」
「ごめんごめん」
 誠二は横に置いていた鞄を手にし、穂波と一緒に美術室を後にした。
 電気も切られ、夏の早々たる日没に彩られた室内には、月夜が差し込む。
 まるで、それは運命の訪れを告げるように。


 翌日の部活動後、深深とかげ暗き風が吹き去る中、誠二は川原の土手近くを歩いていた。
 いつも登下校で通る道なのでさして感慨もなく通っていたが、そのときは異様な、奇妙とも取れる違和感があった。
 それは、その日の美術部活動のときからでもあった。
「先輩、いま何使ってるんですか?」
 昨日から描いている肖像画を描いているときの、後輩の大したことない質問。しかし、このあと、
「ん……。灰色のクレヨンだけど」
 誠二は答えた。全く違和感なく、前々からそう言っていたかのように、誠二は『灰色』という名称を口にした。そして、それに自身は気づかなかった。後輩が逆に驚いたので、初めて自分が『灰色』と口にしたのに気づいたぐらいだ。
 一体なぜなのだろう。今までこんなことはなかったのに。
 誠二の頭の中で疑問が浮かぶ。
 悪いことではない。別に少女と約束したわけでもないし、ましてそれは自分が好きで言っていたことだ。
 しかし胸を締め付けるような、悲愴のような、この感じは何なのだろう。
 誠二はそう思いながら、土手を進んだ。
 しかし、次の瞬間にその動きは静止した。
 土手の下に背を向けた人影がある。日暮れも早い季節、こんな時間にこんなところにいるのは、誠二でなくとも気になる。特に、その人影が服装から女性あることを見て取れば尚のことであった。
「どうしたんですか? もうこんな時間ですし、土手は危ないですよ」
 従来の性格もあって、誠二は土手を降りながら女性に声をかけた。
 しかし、聞こえていないのか、女性は振り向くことすらしない。
「あの……」
 もう一度誠二が声をかけると女性は気づいたらしく、ゆっくり振り向いた。
 その顔に驚愕した。女性がではない。誠二がだ。
 肩口まで伸びた黒髪は恍惚させるが如し美しさ。まるでその月夜に浮かぶ輪郭と身体は、一つの完成された像のようであった。
 そしてその顔は、先刻誠二が学校で描いていた女性の肖像画に瓜二つなのだ。
 女性の服装はブラウスとロングスカート、さすがにそこまでは同じでないが。
「……私の顔、何か付いてますか?」
 誠二が自身の顔を見たまま硬直していたので、女性は戸惑いながらに聞いた。
 その言葉に、ハッと誠二は心を取り戻した。まさか、あの――想像≠ナ描いたに過ぎない女性像が、いま目の前にいる。
 前に進めばすぐにも手が届くところに、彼女がいる。
「雪(ゆき)……ちゃん?」
 誠二の唇から、震えながらに出た言葉に、今度は女性が静止した。
 いや、戸惑いか。思いもしない再縁に、心の動きは付いてこない。
「せーくん……?」
 それでも、それでも紡がれる言葉は、記憶の断片たる憶持なのだろう。
 誠二は十年振りに、枝山雪(えやま ゆき)と出会った。
 それは運命か、偶然か、はたまた天の悪戯か。
 言い方は違えど、ただそこにあるのは、再会の二文字だけなのだった。


「雪ちゃんとこんなところで会えるなんて、思ってもみなかった」
 誠二は悦楽の思いに浸りながら、雪の側に座っていた。
 更に彼が驚いたのは、自分の描いた、あの雪が成長していたらという想像≠フ絵。あれが本物と全くそっくりであったこと。通常で考えればありえないことだが、それでも誠二は雪に会えたことだけで十分だった。
「私も、まさかせーくんに会えるなんて」
 雪も驚きと喜びを感じながら、誠二に言う。
 何も変わらない。成長以外に、二人は変わらない。
「せーくんは何してるのいま?」
「今は普通に高校通って、美術部にいるよ。もう一年もしたら卒業だけど」
「そうなんだ」
 雪は誠二のことを聞いて嬉しいのか、笑顔を見せた。
 それすらも、あの十年前と何も変わらない。誠二が自分自身で描いた、あの姿とも。
「雪ちゃんは、いま何してるの?」
 それは自分が聞かれた事もあって、ふいに聞いたことであった。
 しかし、
「ん……ちょっと」
 それをはぐらかすように答える雪の姿は、誠二の胸を刺すような、悲しげな表情であった。
 触れてはいけないことに触れたかと、誠二は少し罪悪感を感じる。
「ごめん、何か……」
「別に、いいよ。なんでもないから」
 成長以外は何も変わっていない。それは、とても大きな歪であった。
 慢心、疑心、悪心、善心。心の成長に伴う不意が悩ます。
 そして、十年という時の流れが、二人の心を惑わす。
「雪ちゃん、憶えてる?」
 それでも、再会の喜びを分かち合えるようにと意図してか、誠二は鞄の中から一つのクレヨンを取り出した。
 それは、部活で使っているクレヨンとはまた違う、別の灰色クレヨン。時が流れても変わることない記憶の断片。二人を繋ぐ絆。
「ねずみ色……!」
 雪はそれが取り出された瞬間に、目を見開いて驚いた。
「何で……、それ」
「うん。あのときからずっと……。十年前に本当は返しとくべきものなんだけど、結局返しそびれて。それ以来、ずっと肌身離さず持ってるんだ」
 古いクレヨンなので、もう随分と欠けている。しかし、そのクレヨンを包む紙には、確かに『えやまゆき』と、ひらがなで書いてあった。
「せーくん」
 雪は、声なき涙を流しながら、誠二のクレヨンを持つ手を重ねて握った。
 別れに涙はなかった。それは二人の交わした約束で、あのとき二人は泣かなかった。
「ねずみ色を、これを持ってたら、いつか雪ちゃんと会えると思ってた」
 誠二も涙を流す。
 それは喜びか、もしかしたら名残かもしれない。
 二人は別離の涙を流さず、再び会えること、再び言葉を交わせることを信じていたのだろう。
 それは再会の涙。月夜に映る二人は、煌く涙を音なく流した。


 それはたった一つの虐めでしかなかった。
 どこにでもあるような、一人の対象を慰み者にして愉悦に溺れる。そんな世界から見れば他愛のない事。
 学校に来れば机にはカッターナイフの落書きが。机の引き出しを開ければ塵。そして当時の少年にしては、恐ろしき暴行と無視。
 全ては人の驕りたる行為。しかし誰しも己が身を守ることを優先する。それは変わらない。
 だから、誠二は受け入れて過ごすしかなかった。
 自分が我慢すれば、家族にも、先生にも、クラスメイトにも、誰にも迷惑をかけない。そう誠二は思っていた。
 人の幸福のためには、犠牲が付き物とはよく言う。それが本当の幸せか。それは本当に人のためか。まだ十歳にも満たない当時の誠二には、まだ理解しうるところではなかった。
 そして、ある美術の時間。
「はい、それじゃあ今日は外の様子を描きまーす。クレヨンを出して、二人一組になってください」
 担任教諭の言葉を合図に、生徒達は各々のクレヨンを取り出して、パートナーを探し始めた。
 もちろん、誠二もクレヨンを取り出した。そして中身を確認しようと蓋を開けたが、そこには、一つのクレヨンがなかった。
 灰色のクレヨン。他の人はあまり使うことないが、誠二が最も好む色のクレヨンであった。
 クレヨンがない時点で、クラスの誰かがやったんだと誠二はすぐに気づいた。大体自分が一番好きなクレヨンが、ついこないだまであったのに消失するはずがない。
 それでも、誠二は何も言わないのだが。
 クラスの他の人達は、それぞれがパートナーを組み、外へと歩いていく。
 どちらにせよ、自分には相手になってくれる人などいない。誠二はそう思って、クレヨン箱を片手に席を立った。
 そのとき、
「誠二君、ねずみ色ないの?」
 声をかけてきた少女がいた。
 その名札には、『枝山雪』と書かれている。
 黒髪のその童女は、まるでさも当たり前のように右手を差し出した。先ほどの誠二の行動を見ていたのだろうか、開いたその右掌には、灰色のクレヨン。
「これ……?」
「貸してあげる。一緒に外で描こうよ」
 無垢で純心な笑みを、雪は誠二に向けた。
 迷惑をかけないように、誰にも助けを求めないようにと誓っていても、本当は助けが欲しかったのかもしれない。誠二の心の悲鳴を支えてくれるような、そんな人を待っていたのかもしれない。それが大人であれ、子供であれど。
「うん」
 瞼に揺れる涙を拭いて、誠二は雪の灰色――いや、ねずみ色のクレヨンを手に取った。
 これが始まり。これが動き出した時。
 そして、この一週間後、枝山雪は転校することとなる。
 一週間の間、二人は時間を共にした。
 学校、休み時間、放課後。短くも長い時間。
 その間に二人はお互いの呼び名を決めた。雪はせーくんと、誠二は雪ちゃんとお互いを呼ぶ。
 忘れていて返せなかったねずみ色のクレヨンが、転校した雪の最後に残したもので、誠二はそれを片時も離すことはなかった。
 虐めは高学年になると自然に治まってきたが、誠二は結局、雪に言うことも渡すこともできなかった。
 それは、たった一つの、ありがとう


「あれ? 今日はもう帰るんだ、麻生君」
 生徒会からの帰り、美術部室の前を通りかかった穂波が見たのは、帰り支度をしている麻生誠二の姿だった。
 いつもは部活が終わっても、何かしら絵を描くため残っている彼が、今日に限って帰るというのもひどく珍しい。
「うん。ちょっとやることと言うか、用事があって」
 誤魔化すように誠二は言うと、そのまま出口までやってきた。
 非常に怪しいと、穂波は勘ぐっていた。誠二とはこの高校に入ってから、別のクラスといえども放課後を共有した仲だ。それなりに穂波は彼のことを分かっていると自負しているし、何せ態度が挙動不審だ。
「ふーん……。用事、ね。麻生君、その用事って何なの?」
 疑いの眼差しを向け、穂波は誠二に問いただす。
 自身では気づいていないと思っているが、そこには無意識の微々な怒りが溢れていた。正直、いま他人が彼女を見れば、怖い。
「いや、だから大したことないよ。ちょっと色々と」
 その様子に誠二はたじたじしながら、恐る恐る答えた。
 穂波は何かと誠二を気づかう。いや、気づかうと言うよりかおお節介と言ったほうが良いかもしれない。
 第一、放課後に残る生徒を待つ必要などないのに、いつも誠二が帰るのを待っているのもそのせいだ。
 本人は生徒会委員としてと言っているが、実のところは気になってしょうがないのだ。誠二が。
「色々とね。その色々が知りたいところなんですけど、私は」
「伊藤さんは、関係ないでしょ。いいじゃん何でも」
 冷や汗を流して、必死に誠二は抵抗を試みる。
「生徒会委員として、私には生徒の動向を知る義務があります。だから麻生君も答えないといけないんです」
 全くにしてそんな義務などない。
 しかし現在の穂波が誠二の言葉など聞くはずもなく、結局彼に出来ることは一つ。
「あ、そろそろ行かないと。じゃね、伊藤さんっ!」
 逃げることであった。
「あっ! もう麻生君っ!」
 呼びかけたとき、誠二は既に廊下の角を曲がっていた。
 無性に、穂波は誠二の動向が気になる。
 分かっている。自分がなぜこんなにも誠二が気になるのか。特にいつもと違う今回だけに。
 絵を描く誠二が好きで。どんなに悔しくても、それは否定できなくて。
 でも、誠二の中には他の人がいる。
 自分以外の、唯一無二の人が。
 それはクレヨンについてなど誠二が話すとき、当に気づいていた。
 その瞳には自分が映っていない。自分は、放課後一緒になる生徒会委員。誠二にとって伊藤穂波は、ただの同級生。
 それでも、それでも穂波は誠二のことが好きになった。
 いつも絵を描くはずの誠二が、一体どうして言えない用事。
 穂波は走った。
 好きな青年に追いつこうと。否、青年を尾行しようと。


 学校近くのバス停で行ける街中、穂波が見た誠二は、知らない女性と歩いていた。
 学校の後すぐに来た制服の誠二と、ワンピース姿の女性。服だけは不釣合いな感じに見えるが、横で笑う誠二を見ると、穂波は胸が締め付けられた。
 ――あの人……、似てる。
 女性の姿は、誠二が美術部で描いていた肖像画によく似ていた。いや、瓜二つと言っても良いぐらいだった。
 彼女は誠二にとって何なのだろう。
 電柱の影から、衣服店へと入る二人を見て、穂波は急に虚しくなった。
 一体、なぜ自分はこんなことしてるのだろうか。
 誠二が気になったから、と言えばそれで終わりだが、やっていることはストーカーとそう変わりない。
 彼女が何であれ、こんなことはフェアではない。
 誠二の瞳に映る人が、彼女であっても、自分は自分で振り向いてもらえるよう頑張れば良いじゃないか。
 自分がやっていることが馬鹿馬鹿しくなってくる。
 元々生徒会をやるほど。それなりに考えはするのだ。
 穂波は鞄を持ち直すと、颯爽とバス停へ歩いていった。


 街中の衣服店に雪と入ろうとしたとき、誠二は何か視線のようなものを感じた。
 しかし後ろを振り返ってみても、特に知り合いが見つかるわけでもなかった。
「どうしたの? せーくん」
「いや、何でもない」
 雪に言ったとしてどうかなるわけでもなかったし、誠二は慌てて中に入った。
 制服姿で店に入るのもどうかと思うが、再会の記念に、何かここで買えば問題ないかと、誠二は思った。
 店内には店員が二人ほどいて、あとはちらほらと客がいる程度。
 先駆けて行く雪の後を追って、誠二は一緒に売り物を見て回った。
 誠二といる雪は、まるで子どものように店の服を見て回る。こんな店に入ったことがないかのように。
 それが少し、誠二には不自然に感じた。
 異様な程、衣服店というものに対して喜んでいるのだ。
「せーくんせーくん。こんなのどうかな?」
 雪は手を振りながら誠二を呼び、両手で持った服を体に合わせた。
 淡く綺麗な水色のブラウスで、それは雪にとても似合っているように、誠二は感じた。
 別に、不自然でも良い。きっと自分とのショッピングを楽しんでるだけなのだ。
 そうだとしたら、尚のこと良いのだし。
「うん、似合ってる」
 それだけ。たったそれだけのことだが、雪はとても嬉しそうに微笑む。
 誠二は、何年もこの笑顔が見たかった。
 ずっと、彼女と会うことを考えて生きてきた。いつかまた、ねずみ色のクレヨンと一緒に、彼女と会えることを信じて。
 その後二人は、誠二の服を色々物色した後に買い、店を出た。
 誠二の店で買った服装は、黒のジーンズにTシャツと上着のシャツ。半そでなので、一応夏の暑さにも順応していた。
 結局、その後は街をぶらつくだけに終わる。
 映画を見て、月夜も街を差す頃になると、二人は帰るためにバス停まで歩いていた。
「今日は楽しかったね、せーくん!」
 雪は無邪気に笑いながら、誠二に笑みを見せた。
 デートと言えるのかどうかは曖昧だが、この笑顔が見れただけで、誠二は満足だった。
「本当、楽しかった。また一緒に来れると良いね」
 誠二は何気ない一言のつもりだった。
 本当にまた来たいと思っていたし、雪と一緒にいたいと思っていた。
「うん。そう……だね。また、来れると良いな」
 しかし、そう言う雪の顔は、なぜか悲しそうだった。
 何かあるのだろうか。再会したときも、彼女はどこかしら悲しげになった。
 誠二は少し考えたが、それでも分かることはない。
「あ、バス来たよ。走ろう、せーくん」
 バス停まであと少しというところで、バスがやってきていた。
 雪に手を引っ張られて、誠二は走る。
 幸せだった。
 この再会。この時間。この二人の世界。
 誠二は幸せだった。そして、それ故に誠二は止まっていた。


 夏休みも近づき、誠二は雪と土手で座っていた。
 部活の居残りは最近あまりしていない。
「もうすぐ夏休みになるんだ。結構生徒も予定を組んだりして騒いでるよ」
「そうなんだ。せーくんは何か夏休みに予定あるの?」
 雪は屈託ないような笑みを浮かべて、誠二に聞いた。
 誠二は一度自分の予定を浮かべてみたが、別に夏休みにこれといった予定もない。
「いや、ない」
「さびしい青春だね。彼女でも作ればいいのに」
 雪の言ったその一言。
 それが、誠二の心に響く。
 分かってはいた。別に彼女は自分のことが好きって訳でもない。ただの旧友に過ぎないのだと。
 それでも、自分が彼女を好きだと思うのは、いけないことじゃないはずだ。
 ――それは、構わないでしょ?
 誰に聞くでもなく、誠二は思った。
「雪ちゃんは、その、僕の夏休みの間、何か予定ある?」
 そして、次の時には、言葉が流れていた。
「ううん、私、結構いつも空いてるよ」
 微笑みは溶け込んだ。
 誠二と雪の背中から、土手に絵の具を塗るよう沈む夕日に。
「じゃあ、夏休みになったら海に行こう! そこで、絵が描きたいんだ」
「絵……?」
「うん、雪ちゃんの絵」
 雪の返事はなかった。
 それはきっと肯定。承諾。
 二人は無言の約束を交わした。雪の絵を描くため、海に行くと。
 
 ――怪しい。
 伊藤穂波は終ぞ思ったことない疑念と苛立ちに包まれていた。
 今学期の終業式まであと二日と迫ったある日、部活動時間に見た誠二が、幸せそうだったからである。いや、普通に幸せそうだったのならば良いが、その顔は何か嬉しいことを期待した顔だった。
 もしや数日前のあの女に関係することかと、穂波は焦った。
 自分なりに頑張ると決意したとはいえ、他者の女と想い人が一緒にいるのはやるせない。
 人とは斯くも悲しい生き物である。
「麻生君、何か良いことでもあるの?」
「え、いや、なに、もないよ。うん、何もない」
 美術室から出る際、あせあせと誠二は雪に弁解した。
 嘘の下手な男であると、穂波は知っていたが、ここまでくると余計に怒りが湧いてくる。
 しかし、それでも雪は何とか自制を保つ。
「じゃあ、今日一緒に帰らない?」
「え……」
 誠二の動きが止まった。
 そして思案するように躊躇う。
「うーん、ちょっと今日は、無理、かな」
「やっぱりあの女と……」
 穂波はつい声を漏らした。
 そして、ハッと気づいたがもう遅い。
「え……なんで伊藤さん」
「い、いや、ちょっと、この前街のほうに出たら偶然見かけて、ホンと偶然、はは」
 今度は穂波があせあせと弁解を重ねる。
 偶然≠ニいう言葉を除けば、一応真実ではあった。
 誠二は「そうなんだ」とあっさり納得し、ふと気づいたように自身の腕時計を見た。
「あ、もう行くね伊藤さん。それじゃっ!」
「あ、麻生く――」
 誠二は既に背中を向けて廊下を走っており、穂波は言葉を投げかけることが出来なかった。
 明らかに、誠二はあの女性のことのほうを気にしていた。
 もはや穂波のことなど眼中にないくらいに。
 まだ鍵の閉まっていない美術室に、穂波は足を踏み入れた。特に用事があるわけではないが、ふいに、自分の想い人が描いた、あの肖像画を見てみたくなったのだ。
 キャンバスに被った布をゆっくり取る。そこには描きかけの、あの誠二と一緒にいた女性の姿。
 この絵には、誠二の想いが詰まっているのだろうか。
 穂波は、微笑む女性の姿が自分にないものを持っているようで、羨ましく感じられた。そして逆にそれが誠二とこの女性を繋げているようで悲しかった。
 誠二の中には誰がいる。
 自分はそこに入れないのか。
 ――馬鹿みたい。
 馬鹿でも、考えてしまう。それは人が持つ、つまらなくも美しい面。
 布を元通り被せて、穂波は美術室を出て行った。


 雪は来なかった。
 この一、二週間ほどは放課後に土手で会うのが日課だったというのに、雪は誠二の下に来なかった。
「どうしたんだろう……? 雪ちゃん」
 川に石を軽く投げながら、誠二は一人呟いた。
 もう既に日も落ち始めている。紅から黒へと変貌する世界の空は、なぜか妙な胸騒ぎを誠二に感じさせた。
 しかし、誠二は呑まれていたのかもしれない。
 あの雪と歩いた幸福に。平穏に。
 誠二はこの数日の雪との思い出を心の中で反復する。
 この土手での会話。デート、かもしれなかった街巡り。そして海へ行く約束。
 今日は都合が悪かったのだろう。誠二はそう考えた。
 そう。きっと夏休みになれば会える。
 約束したのだから。
 二人は刻んだのだから。
 誠二は立ち上がり、夏休みを楽しみに、帰路へと着いた。


 学校も終わって、誠二は学校の友人達との他愛無い会話を交わした後、バスで街へ向かった。
 昨日は来なかったが、雪が土手に来るのはいつも夕方。終業式前もあり午前で終わったので、少し余裕が出来る。その時間を利用して、誠二は雪に何かプレゼントを買おうと考えたのだ。
 街中で雑踏ほどはない中を歩き、様々なところを見て回る。
 そして、誠二は結局ファンシーショップに行きついた。
 もちろんと言うべきか、女の子の客が多い中、誠二は一つ目に付くものがあった。
 ガラスの置き物。透き通るガラス細工と、鳥を模したその美しい造形が、誠二は雪に似合うと感じた。
 ガラスの置き物も買い、誠二はバスに乗って土手へと向かった。
 ――喜んでくれるかな……。
 早く会いたいという気持ちが膨れている。
 会って話がしたい。海にいつ行くか。他に夏は何をするか。祭りにでも行くか。
 ラッピングされたプレゼントをポケットに入れ、誠二は胸躍らせた。


 土手に人はいた。
 しかし、それは雪ではなかった。
「雪ちゃんの……、お母さん」
 まだ日は沈んでいない夕方、いつも雪と誠二がいた土手に佇んでいたのは、雪の母親であった。
 誠二も一瞬では分からなかった。もう十年も経っているのだから。
 しかし、白髪が少し生えてきていて、肌も荒れているようだったが、その面影は変わらない。
「誠二君……」
 雪の母――草子(そうこ)は呆然と誠二の名を呟いた。
 誠二は、別に雪の母と対面することには問題ない。ただ、このときは嫌な予感、いや、悪寒とも言っていいかもしれない感じが身に触った。
 どうして雪ではなく母親がここにいるのか。
 それに誠二は驚きを隠せなかった。
「お久しぶりです。どうしたんですか? 雪ちゃんは……」
 誠二は聞くが、草子は少し戸惑うような顔をしている。
 何か言いにくいことでもあるような、悲しい表情だ。
 昨日、雪は誠二の下に来なかった、そして、いまこの場にもいない。
 パズルのピースがはまる、嫌な感覚がする。
 ――何か、あったのか……?
「実は、雪に言われて、ここに来たの」
「え、何でですか? 何か来れない理由でも……?」
 草子は一瞬躊躇した。
 そして、まるで誠二が予想しなかった言葉を言った。
「雪は、昨日亡くなったの……」
 そして、誠二の時は止まった。


 枝山雪は血友病だった。
 軽い怪我でも一度流血すると、止まらない病気。すぐに手当てをしないと出血多量になってしまう。たとえ内出血といえども、命取りになることがある。
 幼い頃の彼女の転校は、その治療のため大病院へ入院するためだったのだ。
 随分長い間、彼女は入院していた。しかし、血が出ることさえ気をつければ、何とか生きていけるものだった。
 だが運命は逆転する。まるで悪戯をしているかのように。
 輸血用の血液製剤にエイズが感染していた。
 既に雪の体内に入った汚染血液は、彼女の身体を蝕んでいった。じわじわと。
 遺体安置室で、誠二は雪の遺体を見下ろしていた。
 何もなかったかのように、静かに眠る雪の姿は、まるで童話の姫を思わせる。
「何で……。何で……」
 誠二は繰り返した。
 なぜこうなる。なぜ彼女が死ななければならない。
 ――なんでッ!
 後悔も、懺悔もない。全ては否定。
「誠二君に会いたいって……、雪はこの街に戻ってきたわ」
 草子が誠二の後ろで語る。
「もう余命は少なくて、雪は覚悟していたの、死ぬことを。だったら、最後は誠二君に会いたいって。誠二君と会ったこの街でって……」
 誠二は、後ろで喋る草子が泣いているのを感じた。
 そして、自分も泣いた。
「何も気づかなかった……。何もしてやれなかった……。また、彼女に渡せなかった」
 力なく膝を折り、雪の側で誠二は泣いた。
 後悔した。自分を恨んだ。
「クレヨンも渡せなくて、守ろうとしてた約束も渡せなくて……」
 結局、誠二は雪にいつも渡せずじまいだった。
 ねずみ色も、約束も、そして――。
「ありがとう≠焉A渡せなかった……」
 誠二の泣き声が、安置室に低く響く。
 その時、後ろにいた草子が横に来て、何かを差し出した。
 それは、薄茶色の飾りっ気ない便箋。
 表面に書かれた名前には、『せーくんへ』と書かれていた。
「これ、一昨日づらいかな。雪が亡くなる前に、誠二君に書いてたの」
 草子はそう言って、誠二の手に便箋を握らせた。
 涙を拭いて、誠二はその便箋をたどたどしく開く。
 綺麗な文字で飾られる文面が、現れた手紙に広がっていた。
『せーくん。いま、この手紙読んでるってことは、私が亡くなったからなのかな。色々せーくんには言いたいことあるんだけど、私手紙書くの得意じゃないから、ちょっと難しいな。
 最初、この街に来たとき、すぐせーくんに会えたのはビックリしました。だって、探さないといけないかなーなんて思ってたときだったから。
 せーくんは昔と全然変わってなくって。とっても嬉しかったです。ほら、だって月日は人を変えるとか言うから。
 それに、せーくんはあのクレヨンを持ってたね。今でも持ってるなんて思わなかった。せーくんらしいけど。
 一番会いたかった人に、一番最初に会えるなんて、なんだか奇跡みたいで、本当に神様っているんだと思っちゃった。
 街にも行ったね。楽しかったー。いままでほとんど外に出てなかったけど、もう人生短いし、ちょっとくらいはね。それにせーくんとデートしてみたかったし。凄く嬉しかった。
 海にも行こうって言ってくれたね。でも、ごめんねせーくん。私ちょっといけないみたい。そのときまで、生きるの無理そうだし。
 ごめんね。ごめんねせーくん。
 私約束守れなくて。ねずみ色のクレヨンだって、本当はせーくんが持ってるなんて忘れてたんだ。
 本当にごめんね。
 でも、せーくんに言いたいことが、一つだけあるの。私、ずっとせーくんのこと好きだったよ。私の時間は、幼い頃のあのときで止まってたけど、私はそれでもせーくんが好きだったよ。
 それは、せーくんがねずみ色のクレヨンを見せてくれたときに、もっと好きになった。デートのとき、もっと好きになった。海の約束でもっともっと好きになった。
 たとえせーくんが、私を見てなくても。たとえせーくんの心に私がいなくても、私は、せーくんが好きだったよ。
 最後になるけど、一番言いたかったこと。ありがとう、せーくん』
 雪の手紙は、誠二に当てた最後の告白。そして感謝。
 誠二の涙が、雪の手紙に零れた。文面の上で涙は文字に滲む。
「……何が、ありがとう≠ネんだよ」
 涙で少し咽ながら、誠二は言う。
 言えなかった言葉を。
「雪、ありがとう=v


 終業式の放課後、誠二は美術室でキャンバスに向かっていた。
「あれ、何やってるの? 麻生君」
 そこに穂波がやってくる。
 今日は部活もなく午前で終わりなので、普通の生徒ならばもう帰っている。
「これ、完成させたくて」
 誠二は右手に持った灰色のクレヨンを動かしながら、その肖像画を作り上げていく。
 穂波は、いつもの誠二と少し違うなと、違和感を感じていた。
 それに、最近はいつも放課後にも残らずに帰っていたのに。
「何かあった? 麻生君」
「ん、いや、何もないよ」
 あっさりと誠二は穂波に返事を返した。
 誠二は腕を動かす。
 ただその肖像画を完成させるため。
 彼女の姿を描く。それはもはや理由があるかすら分からない。
 雪への好意があったから。メッセージ。中途半端が嫌だから。
 それも違うような感じがする。
「あれ、麻生君」
「ん、どうしたの伊藤さん」
「そのラッピングしたやつ……」
 穂波が指差した先、誠二の鞄からは、昨日雪に買ったガラスの置き物があった。
 もっとも、ラッピングされているため、穂波にはそれがガラスの置き物とは気づいていないが。
 それを見て、誠二は何となく自分が雪の肖像画を描く理由が分かった気がした。
 それは、きっと感謝。
 きっと、ありがとう≠フ気持ち。
「全く、僕も不器用だ……」
「え……、何?」
 誠二の言葉に、穂波が反応した。
「ううん、何でもない」
 誠二ははぐらかすように言って、再び絵の完成へと取り掛かった。穂波は釈然としないものがあるようだったが。
 感謝。
 きっとあの幼いときから、自分は彼女に言いたかったのだろうと誠二は思う。
 今となってはもう遅いが、それでも、きっと誠二は言うだろう。
「ねぇ、麻生君。そういえばこの作品のタイトルって何なの?」
「…………ありがとう≠ゥな」
「なにそれ? 分かんない」
「ごめんごめん。でも、そういうタイトル」
「ふーん。そうなんだ」