カルパード・ウィザードリィ

 ベイヤード通りの一角にあるモダンなレストラン〈カルパード〉は、夜の19時には開いて、お客を招き入れる。〈カルパード〉の中は、まるで夕日に囲まれたように穏やかなオレンジ色が広がっており、アンティーク調の家具がどことなく高貴な雰囲気を醸し出していた。ああ、俺はこんな雰囲気が大好きだ。レストランの隅で静かに珈琲を飲む男、ビルターはそんなことを思っていた。
 ビルターはレストランに来るまで着ていたコートを横の席に引っ掛け、大人な男を演出している。もちろん、服装だって拘ってる。シックなシャツにタイトなジーンズ。シンプルだが、それが自分の顔を引き立たせる。髭は不精にならぬよう整えてあり、準備は万端だ。何の準備かって? そりゃあもちろん、女を待つ準備さ。ビルターは意識の中で問答を繰り返し、気づかぬうちにそわそわし始めていた心を落ち着かせた。
 心が落ち着くと、ようやくレストランの内部をよく見渡す余裕が出てくる。客は少なくもないが、多くもないだろう。自分を入れてせいぜい10人といったところだ。特に歳のいった人が多いが、若いカップルの組み合わせもいる。雰囲気は上々だ。
 はたと目に入ったのは、カウンターにいる一人の客であった。くたびれた風の男だが、その反面、上品な印象も伺える。歳は若く見えるくせに、些か年寄りくさいようだ。スーツ姿のその男はクセのある髪をくしゃくしゃと後ろに流した。さっと現れた顔を見て、ビルターは脳裏にかつての小学校を思い出した。おもむろに立ち上がったビルターは、スーツ姿の男のもとに近づいていった。
「おい、ジェニクか?」
 そう声をかけると、男はビルターに振り向いた。しばらくなんとも言えない奇妙な顔をしていたが、やがて思い至ったのか、さぁっと顔が明るくなった。
「やぁ、ビルターじゃないかっ! 懐かしいなぁ」
「やっぱりジェニクか。そうじゃないかと思ったぜ」
 二人は抱き合った。ジェニク・ロバート――ビルターにとって、小学校時代の無二の親友だった男だ。


 ジェニクは正直言って、ひどくどんくさい印象だった。それはクラスの誰もが感じていたことであるし、彼自身、それを否定する気もなかったらしい。とはいえ、ビルターはジェニクとよく気が合った。ビルターはベースボールをやったりバスケをやったりと、体力自慢の男だったが、ジェニクといることは時間を忘れるほどに楽しかった。そんなジェニクの不思議な一面を知ったのは、高学年になったときのことである。
 クラス対抗のバスケット大会が開かれるとのことで、もちろんビルターは張り切って練習に参加していた。体育館で動き回る参加組の男の子達は、こぞって練習に励んでいたし、ビルターもそれに混じっていたことは言うまでもない。ジェニクはどうしたか。もちろん、彼もクラスの皆の予想通り、全く参加はせずにぼうっと見学しているだけなのである。彼自身の意思もあるが、クラスの皆が戦力外だと判断したからというのも、理由の一つだ。
 そんな、女子に混じって見学するジェニクが放課後に見当たらなくなっていたことがある。いつも一緒に帰っていたビルターは、学校内を探し回り、ようやく見つけたのが体育館だ。大きな体育館の中で、ボールを片手にジェニクはたった一人でぽつんと佇んでいた。すると、それを見ていたビルターの前で、彼はボールを気だるげに放り投げた。ボールはふわりと弧を描いてゴールポストに見事に入った。その距離は、実にコートの端から端までなのだから、ビルターは目を見開いたものである。それを見てしまったのだから、ビルターが彼に大会に参加するように何度も問い詰めたのは仕方のないことなのかもしれない。結果的に嫌々とジェニクは大会に参加したわけだが、結果はクラスの仲間達の予想通り――全く役に立たなかった。


「あの時はまったく、悪かったなぁ」
「ははっ、ごめんね。役に立たなくて」
「いや、別にいいんだ。無理に誘ったのは俺だし、他の調子はむしろ良かったからな。結果は優勝だったんだし」
 ビルターは過去の思い出に馳せながら、呵々と笑った。ジェニクは昔と変わらず、くすりとした柔和な笑みを浮かべている。
「昔からお前がいると、調子がいいよ。知ってたか? お前のことを幸運の神様って呼ぶやつもいたんだぜ?」
「へぇ、そいつは知らなかった。でも、僕は全然何にも出来ないぜ」
「いてくれるだけで気持ちが上がるってやつさ。何のかんのと、みんなお前といると楽しかったんだから」
 ビルターはそう言って、目の前のカクテルをぐいと飲み干した。
 ジェニクは相変わらず笑みを浮かべていた。お前といると楽しかった。それはこっちの台詞でもあるさ。僕だって、君といるのは楽しいんだぜ? それに、君といるとなぜだか僕は落ち着くんだ。
「そんなお前も中学に上がってからはいなくなっちまったからなぁ」
「悪いね。親の都合って奴さ」
「結局、ニューアード州に行ったんだっけ? 今は何をしてるんだ?」
「今かい? まぁ、自由業をやってるよ。仕事を請け負って、それをこなしてってね」
 ビルターはきょとんとした顔をした後で、何やら思いついたようにジェニクに顔を近づけた。
「フリーライターとかか? かっこいいねぇ」
「ま、そんなとこかな」
「はー、昔っからお前は自分のことをよく教えてくれねぇな」
 ビルターは再びマスターが注いだカクテルを飲み、少しばかり紅潮した顔で気分よく笑った。
「ところで、待ち合わせじゃないのか?」
「ああ、そうだった。じゃあ、そろそろ席に戻るな。……ほら、これ、俺の電話番号。いつでもかけてきてくれ。また一緒に飲めるといいな」
「もちろん」
 ビルターはカウンターから離れると、自分の席へと戻っていった。ほどなくして、店に入ってきて彼の席へと近づいてきたのは、一人の金髪の女性だった。色っぽくも純真さを持っているような、青のドレス。
 なるほど、これからデートの始まりってわけか。夜は長いね。
「良い友達だな」
 グラスを片手にビルターを見ていたジェニクは、マスターに声をかけられた。
「まぁね。だから僕も、こっちを去るときは名残惜しかったよ」
「しかし、コートの端からゴールポストにシュートを決めたってのは、ちょっといただけねぇなぁ」
「ごめんごめん。調子に乗りすぎたんだよ。もちろん、その後の本番はちゃんと自分の力だけでやったさ。全然役に立たなかったけどね」
 ジェニクは自嘲すると、ゆらゆらと揺らすグラス越しに宙を見つめた。
「他の連中にとっては役に立ったんだろうけどな」
「それはしょうがないだろ? 制御なんてあの歳じゃあなかなか効かないさ。特にスポーツの時は、放出されやすい」
「だな」
 二人はくすりと笑い合った。
 オレンジ色の明かりに包まれる室内では、静かな愛の語らいや、食事を楽しむ音、そしてわずかなグラスの揺れる音が聞こえてくる。ジェニクはグラスを置いた。そこには既に液体はなく、残されていたのは薔薇の花が一輪だけだ。彼は席を立った。その際に、もう一度だけかつての友人を見た。彼は女性と楽しそうに会話しながら、これから続く長いであろう夜を後悔させないよう、一生懸命に振舞っていた。
 そんなに肩に力を入れてちゃあ、失敗するぜ。ジェニクはそう思って、瞳に力を入れた。ぼんやりとした青い紋様が瞳に集まったかと思うと、それはすぐに消え去り、代わりにビルターの落ち着いた様子だけが残っていた。
「じゃあ、マスター。また時間が出来たら来るよ」
「今度はサービスはなしだ。普通の人間を店に導いたなんて知られたら、俺が何を言われるか」
「ああ、今日は助かったよ」
 ジェニクはそう言って、レストランの奥に飾られている絵の前に向かった。そこは客からは死角になっている場所だ。額縁に飾られた絵の前で、ジェニクははたと足を止めた。
 頑張れよ、ビルター。
 そうして、風が浮かぶような音がしたかと思うと次の瞬間には――もう絵の前に誰もいなかった。