神様なんていない

 神様なんていない。加代(かよ)はそう思った。
 大木の傍で愛の告白を告げる、どこかドラマのようなシュチュエーションの中に、私はいない。
 だから、神様なんていないんだ。加代はただ、そう思うしかなかった。

1


「えっ、新田(にった)先輩が好きなの?」
「うん、そう。だから、少しでも近づけますようにって」
 神社の賽銭箱の前で、加代と沙織(さおり)はしゃがみ込んでいた。学校も終わった放課後の時間、寂れた神社に来る人はそうそういるものではない。加代は静かに微笑んで立ち上がった。
「でね、毎日お祈りしてるの。神様どうかお願いします。新田先輩と付き合えますようにっ! ってね」
「へー。それはかいがいしいわね。神様もきっと、加代のことを見てくれてるよ」
「ほんとっ! そうかなー?」
 沙織は加代の頭を何度か軽く叩くと、彼女よりも先に階段へと向かった。加代はその後を追った。二人は階段をまるでダンスでも踊るかのようにリズムよく降りながら、会話に華を咲かせた。
「ねぇ、新田先輩のどこがいいの?」
「そんなの決まってるじゃない。格好いいし、優しいところ、かな?」
「まぁ、確かに優しいよね。でも……格好良いかなー?」
「えー、沙織はそう思わないの?」
 階段を降り終えた沙織は、加代に悪戯な笑みを浮かべた。
「ま、ね。私はこれでもたくさんの男を見てきてるのっ。自慢じゃないけど、新田先輩ぐらいじゃあ私のレベルには全然――」
「沙織、それ、自慢だって」
「ねぇ、もし新田先輩が他の誰かと付き合ったら、どうするの?」
「そのときは……知り合いだったら一発ひっぱたかせてもらう、かな」
「えー、ひどい。やばーん」
 二人は夕闇が近い帰り道の中で笑い合いながら家路に着いた。その途中では沙織の昔の男の話が広がったが、加代はいつも通りそれを軽くあしらいながら、明日は新田先輩の絵画が完成する頃だなぁと、意識していた。完成した頃には、きっと加代の健気な願いも届くのだろうか。加代自身は、ただそう願うことしか出来なかった。

2


 新田和明(にった かずあき)はキャンバスと向かい合って筆を走らせた。眼鏡の奥に光るその瞳は真剣そのものであり、触れるものは許さないとばかりに自分の絵画を睨みつけている。加代は、新田のこんな表情が好きだった。新田が筆を走らせる後方で、加代と沙織が混じる一年生のメンバーはスケッチに勤しんでいた。題材はティッシュ箱だ。侮るなかれ。ティッシュ箱は柔らかいイメージの紙と箱の直線が相対的な、実に描写練習には最適な題材なのである。
 一年生メンバーは皆、それぞれに苦悩しながらも筆を動かす――が
「こら、加代。何をぼーっとしてる」
「あっ、はい、すみませんっ」
 指導係の先輩に怒られて、加代は新田を見ていた視線をすぐさまキャンバスに移した。
「ったく、最近のお前はだらしないぞ。他のメンバーを見てみろ。生島に小和田、それに、相田は特にやる気が目ざましいぞ」
 加代は、横目でその目ざましいという友達――相田沙織
あいださおり
を見た。沙織は加代の視線に気づいて苦笑を返したが、すぐに自分のキャンバスに集中した。
 彼女のキャンバスは少しの狂いもなく、的確にティッシュ箱を描写していた。その技術にも驚きだが、加代は沙織の表情に少しばかり呆然とした。彼女は普段から見せるふざけた表情からは一変して、そう、まるで……新田和明のようにキャンバスへと自分の力を注ぎ込んでいるのだ。
 加代は沙織から目を逸らした。
 彼女の目を見ていると、どこか自分がとてもひどく矮小な存在に思えてしまう。加代は静かに呼吸して、自分のスケッチに集中した。
 しばしの後、描写の時間が終わった。それでも、彼女の表情と新田和明の表情が、加代の意識から離れなかった。彼女は意識を振った。こんな変なことを考えている場合じゃない。新田先輩の絵は、もう完成したのだろうか?
「ほう、なかなか良い感じに仕上がったじゃないか」
「そうですね。自分でも、思って以上の出来だと、思います。ただ、技術はまだまだですが」
 部長の言葉に、新田は苦笑いを返した。
「おいおい、ここまで描けてそれはないだろう。私たちに対する嫌味か?」
「まさかっ。そんなことありませんって」
「冗談だよ、冗談」
 部長は大笑して新田の肩を叩いた。新田は穏やかに笑いながら、自分の絵の完成を満足げに見つめていた。
「新田先輩。完成したみたいね」
「……うん、そうみたい」
 沙織の言葉に、加代は気が抜けたような返事を返した。
「どうしたの? ほら、次はこれだってさ」
「なに? スケッチの題材?」
「そっ。今度はくまさんのぬいぐるみー。まぁ、ダビデ像よりかはマシよねー」
 沙織はそんなにやにやしながらそんな冗談を言って、自分の席へと座った。加代も同じように席に座りなおし、テーブルの上に置かれたぬいぐるみのスケッチへと勤しんだ。
 そっか、新田先輩、完成したのか。
 加代は筆を動かしながらも気持ちが遠く離れており、内心で、新田の絵が完成したことをまるで自分の絵のように喜んでいた。その高揚し、そして興奮した気持ちは、加代の心を揺れ動かす。やっぱり、新田はすごい。こんなにも、人の心を動かす絵が描けるんだから。
「頑張ってるね」
 加代はびくっと飛び上がりそうになった。
 新田の絵のことばかりを考えていた加代は、背後に近付いていた人に気づかなかったのだ。それが新田ともなれば、なんと自分が馬鹿らしい。
「に、新田先輩」
「ほら、ここの線はもうちょっと深く描き込むといいかな。それだけやっぱり、柔らかい質感を出せるから」
「は、はいっ」
「よし、じゃあ頑張って」
 新田は柔和な笑みを浮かべて、加代から去って行った。そして、別の一年生の指導に当たっていく。
 あー……絵が完成したから、指導役に回ってるのか。加代は納得し、先程まで新田がいた距離を思い返して紅潮した。あれほどまでに近付いたのは、初めてではないだろうか。いま考えれば、息も当たっていたような気がしないでもないし。
 ああぁっ、もったいないことしたぁっ。
 そんな加代を見ていた沙織はくすくすと笑っていた。
 笑い事じゃないよぉ……。
 加代は沙織に目で訴えたが、その頃には新田が沙織の傍にやってきていた。新田が沙織にアドバイスを送ると、沙織は更に色々な質問を繰り返し、新田との会話はある意味で盛り上がっていた。加代は少しだけ嫌な気分だった。なんとなくだが、二人の間には自分にない空間がある気がした。胸は、それこそ嫉妬であろうが、ちくりと痛んだ。
 最低だ、私。
 沙織は真剣である。ただ美術部として新田から多くを学ぼうとしているだけである。きっと、沙織自身も加代はそれを理解している、と思っているからこそ、新田と遠慮なく話すのだ。
 加代は新田と上手く会話することが出来ない。会話の種も分からないし、それに、緊張が途切れることなく加代を縛り付ける。それに比べて――
 沙織はすごいなぁ。
 加代は二人から視線を逸らしてスケッチに集中することにした。そうでもしないと、加代のちくりとした胸の痛みは、もっと大きくなってしまいそうだった。

3


 放課後の美術室に加代と沙織は居残っていた。絵の練習をするためもあるが、本音を言えば単に会話を楽しむだけが目的でもあるだろう。彼女たちは片手間に自分のやりたい美術絵を描きながら、新田の絵が出される博覧会について話していた。
「新田先輩の絵って、どこに飾られるのかな?」
「さぁ、わかんない。でも、少なくともほかの学生よりかは目立つところじゃないの? やっぱり将来有望だし」
「うーん、そっかぁ」
 沙織は片手間とは言えども、絵に妥協は許さない。だからこそ、集中しているときには返事に気がないのだ。
 加代はそれをよく知っている。だから、彼女が集中しているときにはあまり会話を強要しない。それは察する、ということだ。友達のことは察する。それが友達というものの心境である。
 とはいえ――仮に美術部ともなればその実力に嫉妬を覚えるのは無理がない。
 中学生のときは多少なりとも遊び心の部活動であったが、いまは絵に対して真剣だ。加代は彼女ほど、上手くない。そして、自分の絵があまり好きではない。そこにあるのはまるで技術だけが寄り集まったおざなりの結晶で、面白さに欠けている。上手くもなければ発想も悪く、どうも、自分には才能がない気がする。
「うぁ……あぁ、ふぁあ。ちょっと疲れてきたねー。私、飲み物でも買ってくるわ」
「あ、私もいこうか?」
「ううん、一人でも大丈夫だよ。それに、部室に誰かいないと困るでしょ? はい、何買ってきてほしい?」
「えっと、じゃあミルクティーで」
「了解」
 沙織は親指を立てて微笑み、部室から出て行った。途端に部室は静かになり、加代は自分の絵だけに集中したが、それは破られることになった。
 部室の戸が音を立てた。
「あれ、一人?」
「に、新田先輩……!」
 そこに立っていた新田は、いつもどおりの柔和な笑顔を浮かべて加代に絵に近づいた。
「へー、油絵なんて描くんだ」
「い、いやっ、これはっ、その……」
「隠さなくてもいいのに、上手に描けてると思うよ」
 新田は声に出して笑うと、辺りを見回した。
「ところで、相田さんは?」
「えっと、飲み物を買いに……って、なんで沙織がいるって……?」
「ん……? ああ、相田さん、よく放課後に残って描いてることがあるんだよ。知らなかった? てっきり、相田さんに付き合って居残ってるのかと思ったけど」
「い、いえ、そういうわけじゃ……」
 加代は知らなかった。沙織がそんなことをしていたなど、彼女は一言も言っていなかった。いや、確かに、彼女は言わないだろう。昔から彼女は努力の人だ。人の知らない場所で、全然そんな素振りは見せずに努力している。そして結果を出す。彼女らしいといえば、彼女らしい。
「……すごいよね、相田さん」
 ふと、新田が言った。彼の目は、沙織の残したキャンバスに注がれている。
「そうですね……。すごい、です」
「うん、それに、僕は彼女の絵がすごい好きだ。とても、躍動感があって、元気をもらえる。……僕はさ。よく考えてることがあって、その人の、人物の姿ってのが、絵には反映されるんじゃないかってよく思うんだ」
 加代に話しかけながらも、新田の目は彼女を見ていなかった。
 加代もまた、二人の空間に緊張からか目を逸らし、沙織の絵を見ていた。その人の姿が反映される。それは確かかもしれない。沙織が描いたと思えばこの絵は、納得できる気がする。
「あれ? 新田先輩?」
 そんなことを考えていたとき、沙織が部室へと戻ってきた。
 新田はその後、沙織の絵の話をすることはなかった。しばらくの間、三人で会話を広げていたが、加代は新田ではなく沙織の絵のことをただ、考えていた。

4


 加代は神社へと向かって歩いていた。
 日々のお参りは欠かさない。新田先輩とお近づきできますように。そして自分の緊張がなくなりますように。
 神社へと駆け上がる階段を上りきったら、やはり今日も今日とて誰もいなかった。寂れた神社にご利益があるのかは分からないが、加代にとってみれば神社というだけで神聖なものである。
 博覧会前からずっと、お祈りを続けている。いつになったら実るのか、分からない。
 いつも通り、加代が神社の賽銭箱前で両手を合わせようとすると、奥からなにやら話し声が聞こえてきた。
 こんな時間に人がいるなんてことはほとんどない。あったとしても近所のお爺さんぐらいのもので、それにしても話し声が聞こえるなんてことはそうそうない。加代は気になって神社の奥へと向かった。
 角を曲がろうとしたとき――そこにいる人物が目に入った。それは、沙織と新田である。
 はっとなって、加代はすぐに身を隠した。なぜかは分からない。しかし、どこか二人の雰囲気には立ち入れないような気がした。神社の奥で対面する二人の空気は、いつもとは違う。加代は大きな大木の後ろで、二人の会話を聞いていた。
「――付き合ってほしいんだ」
 新田が言った。それは怒気を孕んでいるかのように強く、そして意思に溢れた声だった。
「でも、私は……」
「相田さんの絵を初めて見たときから、ずっと思ってた。きっと、この人はすごい人なんだって。……それは外れてなかったよ。僕は、相田さんの絵が好きなんだ。だから、ずっと相田さんを見てたけど――」
「けど……?」
「そのうち、相田さん自身に目がいくようになってた」
 加代は目の前が真っ暗になったように崩れ落ちた。静かに、音を立てず、落ち葉の上で彼女は虚ろに宙を見ていた。
「――好きなんだ。すごく、好きなんだ。付き合ってほしい」
「私は……」
「返事は、急がないよ。だから、一週間後にまたここで会ってもらいたいんだ。そのときに、返事を聞かせてほしい」
 新田は少しだけ焦るように、その場を後にした。彼もまた、緊張で心臓の音が激しく聞こえていた。
 加代はいまだ呆然と宙を見ていたが、自然とこれまでのものが崩れ去ったことに気づけば、瞳から涙が流れてきた。頬を伝う涙は雫となり、落ち葉の上に零れ落ちる。嗚咽が起きた。声を抑えようとしても、どうしても涙は止まらず、声も漏れてしまう。
「加代……?」
 気づくと、沙織が傍にいた。
 彼女は悲痛そうに加代を見下ろしていた。
 加代は涙でくしゃくしゃになった顔を上げて、沙織を見つめた。彼女は、何と声をかけていいのか分からず、悲しい目をしている。沙織は座り込み、何度も加代の肩に触れようとして、とどまった。加代はそんな彼女を見て、彼女の胸に身を預けた。
「加代……!?」
「ごめん、少しの間、だけ、だから」
 泣いた。加代はもう歯止めを取って、穏やかにそして激しく泣いた。むせび泣くことでしか、崩れたものの悲しみを受け止められなかった。
 鳴き声がか細くなり、嗚咽も沈んだ頃に加代は顔を上げた。沙織の胸元は涙で濡れて、服のしわも寄っている。
「ごめんね、沙織」
「う、ううん、別に、これぐらい……」
 しばし、二人は無言になった。沙織はいまだに声のかけ方が分からず、加代は何かを考えている様子だった。
「ねぇ、新田先輩のこと、好き?」
 加代は唐突に聞いた。
「えっ……、と、それは……」
 沙織は少しだけ紅潮して、なんと言えば良いのか考えあぐねていた。しかし……加代にはそれだけで分かった。きっと、意識していなかったのが、先ほどので変わったのだろう。加代には分かる。友人だからこそ、沙織のことはよく分かる。
「そっか」
 加代は目元に残っていた涙を拭って、沙織に笑顔を見せた。
「加代……」
「いいんだ。新田先輩は沙織のことが好きだって言ってたし、これで、いいんだ」
 加代は精一杯笑って見せた。不思議と、確かに心は悲しんでいるが、大きな痛みを伴うことはなかった。
 理解してしまえば、心は楽になれる。彼女は、そんな気がした。
「沙織、新田先輩にちゃんと、返事返しなよ」
「……うん」
 加代は落ち葉から立ち上がり、大木から離れようとした。
「あっと、そだそだ」
 しかし、ふと振り返って意地悪な笑みを浮かべると、彼女は沙織の頬を思い切りひっぱたいた。
「ったああぁぁ……!? なにすんのよっ!?」
「言ってたでしょ? 誰かにとられたら一発ひっぱたくって」
「もう、なによ、それえぇ」
「いーじゃん、幸せ独り占めなんだしー」
 沙織のため息に、加代は笑った。沙織もまた、同じように笑い、二人は神社を後にした。
 いつも通りの変わらない帰り道のなかで、ただ変わったとすればそれは、友達が部活の先輩と付き合うことになったということ。
 加代は神社を振り返った。
 あぁ、きっと、ここに神様なんていないのだ。先輩が沙織を好きになったのは当然だと思うし、私も素直にそれを祝福できるだろう。神様に願っていたって、この世界は何も変わりはしない。自分で変えないと、誰も変わってくれない。沙織は先輩の心を動かした。それは、彼女自身の力で。
 明日は油絵、完成させよう。
「加代、どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
 頑張ろう。
 加代は沙織のもとまで走った。
 私も、そして私の見るこの世界も変えられるようにと、心に秘めて。