ビューレス・リドル19

 海の底のように静かな部屋の中には、女神像にも似た、女性を象った像が鎮座していた。その周りでは、ただ安らかに眠る赤ん坊のように、赤や緑や青といった鮮やかなボタンランプがぼんやりと光っている。
 足音がドームの中に響いた。歩いてくるのは壮年の男で、もみ上げから波のようにかき上がる白髪が、その年齢を物語る。男の顔は年齢にしては若いものの、手の甲から顔にかけて、無数のシワが寄っていた。
「やあ、こんばんは、リドル。調子はどうだい?」
 男は像に話しかけてきた。すると、空気が震える音がし、それまで冷たい印象をしていた像が温かな色を帯びた。そして、瞳が青い色彩を生む。瞳の光から生まれた映像は空間に立体的に浮かび上がり、一人の女性を映し出した。女性は男を見て笑顔になり、彼に近寄るような仕草をした。
「こんばんは、ジェニク。調子は良いわ。ビッツアントル市も、もうすぐ生誕三百年を迎えるわね。どうかしら? 今夜はロボット達のダンスパーティを開くというのは」
「はははっ、それは難しいよ、リドル。ロボットにも仕事があるからね。もちろん、パーティは私も歓迎だが、今日はささやかな二人だけの祝いといこうじゃないか。明日には市をあげての生誕三百年祭が行われる。そのときにはロボットもきっとダンスにレースにゲームにと、人間とともに楽しむだろう」
 ジェニクはそう言って頷いた。
 ああ、人間とロボットが一緒に暮らすようになって、もう三百年が過ぎたのか。時は早いものだ。
 彼はリドルの横に近寄り、巨大な機械の制御盤を動かした。いくつものコンピュータが一斉に動き出したが、その駆動音は静かなものである。まるで波のさざなみのようだ。液体を注ぐ音がコポコポと鳴り、コンピュータの壁が開いた。そこから出てきた制御アームの手には珈琲を注いだカップがおさまっており、アームはジェニクの目の前で止まった。彼がカップを受け取ると、制御アームは素早く滑らかな動きで再び巨大なコンピュータの中に戻っていった。
 彼は珈琲の香りを楽しみながら、リドルに喋りかけた。
「ところで、君は何歳になったかな、リドル。私の記憶が確かだったら、今は十九歳で、明日の生誕三百年祭で二十歳になるはずだが」
「正解よ、ジェニク。明日の十三時二十一分五十六秒で、私は二十歳の誕生日を迎えるわ。何かお祝いしてくれるの?」
 からかいぐさの笑みを浮かべたリドルは、ジェニクの顔色を伺った。こんなとき、ジェニクは彼女を本当に人間のようだと再認識する。
 ジェニクはわざとらしく苦笑した。
「もちろん。私は娘の誕生日には必ずケーキとその年齢に合わせたロウソクを欠かさないんだ。さて、ではケーキを持ってこようとしよう。君はここをライトアップして、バースディの準備をしててくれると嬉しいな」
「分かったわ。楽しみに待ってる」
 リドルに別れを告げたジェニクは、部屋を後にしてケーキを取りに戻った。無機質な部屋に響く足音はやけに寂しい。部屋の自動ドアが空気を抜いたような音を発して開き、彼は廊下に出てから自分の研究室へ向かった。瞳の色は少しだけ生気をなくしており、何か思案にふけっている様子がよく分かった。彼は考えていた。
 若き日に亡くなった、愛娘のことを。


 ジェニク・バネットの娘、ジニー・バネットは彼のたった一人の娘にしてたった一人の子供であった。ジェニクは世界的なロボット工学者でありエンジニアだ。それにはもちろん名誉を感じているし、それなりの努力はしてきた。謙遜もしなければ、自慢もしない。ジェニクのそんなスタンスには妬みや嫉妬を覚える人間もいたが、それも能力のある者にはある意味でしかるべきことなのかもしれない。ジェニクはそんなことを自分で考え、また納得していた。彼がそれをジニーに話すと、彼女は決まってこう言った。
「パパは頭でっかちだし、物事を考えすぎるわ。世の中にはもっと不思議があるのよ」
 ジニーは笑って、やはり決まったように肩をすくめるのだ。
 ジェニクには妻がいない。妻はジニーを産んでから3年後に亡くなってしまった。もともと身体の弱い人であったし、長くは生きられないと覚悟していた。とはいえ、悲しみは決して癒えることはない。それだけは確かだ。人の悲しみは癒えず、ただ何かで補い、そしてそれを忘れたように生きていくしかないのだ。ジェニクにとっては、ジニーがいたことこそが幸せだった。妻を亡くした悲しみは、ジニーが徐々に癒してくれた。たまに思い出せば悲しくなるが、ジニーがいてくれれば、それは何の些細もないことであった。
 ジニーは笑顔が素敵だった。ジェニクはジニーを思い出すときはいつも笑顔を思い出す。


 病院のベッドで横になるジニーは、まるで歯車を抜かれた人形のように、身動きがとれない。たくさんのチューブに繋がれて、彼女の身体にはただひたすらに生命維持のための栄養が送られる。彼女の意識は元気だ。人工脳は彼女の意識だけを繋ぎとめていた。
 ジェニクはジニーの横の椅子に座って、彼女に話しかける。彼の髪はまだふさふさの黒髪で、老いの影は目元のシワにしか見られなかった。
「やぁ、ジニー、元気かい?」
「ハイ、パパ。元気よ。今日はリベアル係数の連式を勉強してたの。ねぇ、何か問題出してくれる?」
 彼女自身の口は動かないが、顔色と、横にあるスピーカーの無機質な声が応えてくれた。
「そうだなぁ……。例えばこんなのはどうだい?」
 ジェニクは傍らのテーブルに置かれていたマジックペンを掴むと、持ってきた画用紙帳から一枚をバリバリと抜き取り、リベラル係数の問題を一問だけ書き込んだ。自分の大学の講義でさえ出すことの少ない、比較的難しい種類の問題だ。それを彼女に見せると、彼女は少しだけ無言になって、やがて答えを見事に回答した。
「すごいな、ジニー。君はもしかしたら、僕の大学でも首席を取れるぐらいの秀才かもしれないぞ」
「あら、パパの娘だもの、当たり前でしょ?」
 彼女はそう言って、声を高らかに笑った。ジェニクもそれにつられて、笑い声を上げる。
 しかし、ここ随分と彼女の生の声は聞いたことがない。ずっと、機械的なスピーカーの声だけだ。それでもジェニクにとっては娘と対話できることが唯一の救いだった。一年前に事故にあってしまったジニーは、もはや動かぬ身体だ。頬肉だけは筋肉が作用しているため、笑顔を作り出すことはできる。その笑顔はまるで森の隙間から見える日の光のように、眩しいほど美しい。ジェニクはジニーの笑顔を見るだけで、元気が沸いてくるのだ。
「そういえば、明日は君の誕生日だね」
「あぁっ! そうだった。私、明日で二十歳になるのね」
 はしゃぎ出した声色が、その喜びを物語っている。
「ああ、今日の夜にでもケーキを持ってこよう。そして十二時を過ぎたら君の二十歳の節目を祝おうじゃないか」
「ありがとう、パパ」
「おっと、もう仕事の時間だ。それじゃあ、ジニー。また夜に」
「うん、また、夜にね」
 ジニーに別れを告げて、ジェニクは病室を出て行った。
 それが、ジニーとの最後の会話であった。二十歳の誕生日を迎える前に、彼女の人工脳は機能を停止したのである。
 ジニーが亡くなったことを告げられたジェニクは、呆然とするしかなかった。もはや、彼を補うものは何もない。母も娘も失って、ジェニクのぽっかりと空いた穴を埋めるものはなくなったのだ。
 ただ、幸いにして皮肉というべきか。ジェニクは天才だった。


 ジェニクが用意していたケーキを持ってリドルのドームへと戻ると、そこには高々と無機質な信号音が鳴っていた。その音は、いわばライフラインの切断を意味している。ジェニクはケーキが零れ落ちるのも構わず、リドルのもとへ走った。
 像の目はジェニクが駆け寄ってきても色を得ることはなかった。代わりに、彼女の周囲を囲む機械群が、信号を鳴らしているだけだ。ジェニクはリドルの像を前にして陰鬱な目をしていた。やがて、彼は生気を失ったかのようにゆらゆらと歩き、制御盤を動かして信号音を止めた。途端に、機械はフェードアウトする沈んだ音を発して、駆動を止める。
 ドーム内は暗くなり、光と言えるのは壁に取り付けてあるライトのみとなった。
 ジェニクは椅子に座り、像を見上げた。そして、ぼそりと呟いた。
「やはり、お前ももたなかったか」
 それに答える像――ビューレス・リドルはもういない。
 どれだけの歳月を費やし、どれだけ人間社会の栄華が発展しようと、これだけは変わらず回り続ける不変の歯車だ。ジェニクは自分の手を眺めた。私はこれだけ歳を食ったというのに、お前は永遠に二十歳を越えることがない。
 ロボット達は半永久的な命を得たというのに、なぜ母であるお前はこうも生きられないのだ。ジェニクは泣き崩れた。絶えることのない苦しみと悲しみで、涙は枯れることなく溢れでる。
 ジェニクは分かっていた。人工脳には限界がある。処理できる能力に限界があるのだ。ジニーは生きられない運命だ。ジェニクの娘であり、天才であるがゆえに、その能力は人工脳の制御能力を越えるのである。耐えられるのは、ちょうど二十年足らず。ジェニクは気づいていた。だが、それを受け止めることは、彼にとってあまりにも酷だったのである。
 ジェニクは立ち上がった。自分の身体がアンドロイドとなり、半永久となって早三百年。いつかは辿り着くときがくるだろうか。ジニーの二十歳の誕生日を迎えるそのときに。
 彼は研究室へと戻った。いずれ再び、ビューレス・リドルが生まれる。
 ビッツアントル市ではロボットと人間の華やかな聖誕祭が始まっていた。その光は美しく、その幸せは煌びやかだ。まるで、ジニーの笑顔のように。