ハッカ飴が嫌いだ。
あの舌を刺激するような味覚が、どうしても好きになれない。
だから、祖母のハッカ飴も――嫌いだ。
「え……。お婆ちゃんこっちに来るの?」
香奈は呆気とした顔で、母親に言われたことを確認した。
「ええ、なんか、身体の調子も少し悪くなってきててね。一人暮らしだと、何かと不便でしょう」
「身体……? 大丈夫なの?」
香奈は少し不安げに聞く。
自分の母ではなく、父方の母のことだからであろう。母親は台所で食器を洗いながら「大丈夫よ」と、まるで報告をしているだけのような雰囲気さえ出して言った。
――お婆ちゃん……。
香奈は昔、よく祖母に面倒を見てもらっていた。まだこの一軒家に引っ越す前の幼い頃、家族で父方の実家にいたためだ。
両親は共働きだったし、ほとんど家にいることがなかった。だから、必然的に家にいる祖母が香奈の面倒を見ることになっていたのだ。
引っ越した後は、正月に会いに行く程度のものだった。
香奈は幼い頃から祖母が大好きで、幼い時は両親よりも祖母に甘えていた気さえする。
でも、そんな香奈でも祖母とは苦い思い出がある。
それは、祖母がいつもくれたハッカ飴のことだった。
香奈はハッカ飴が嫌いで、いつも祖母の目を盗んで食べはしなかった。普通は「嫌い」と断れば済むことだが、祖母の飴をくれる優しそうな微笑みを見ると、香奈はどうしても断ることが出来なかった。
正月に会いに行くときも、いつもくれたものだ。
しかしそれも些細な事。
大好きな祖母が家に住むと言うことで、香奈は嬉しさを覚えていた。
「いつ来るの? お婆ちゃん」
「確か、明後日だったと思うわ。香奈、あんた迎えに行ってあげなさいよ。お婆ちゃん一人じゃ不安だし……」
母親は食器から目を離さず、香奈に言う。
別に母親に言われなくとも、香奈はそのつもりだった。老人を一人でバス停から歩かせるわけにもいかないし、両親は何かと忙しいだろう。
「判った。じゃあ学校が終わったら、迎えに行くよ」
現在香奈は高校二年。別に部活にも入っていないので、夕方には暇になるだろう。
そして、香奈は祖母が来ることに密かな楽しみを抱きながら、風呂に入ってこようとリビングを出た。
学校の帰りに直接迎えに行こうと、香奈は自転車でバス停まで向かっていた。
黒い肩口まで伸びた髪が、風に乗って靡く。それは流水のような清涼感を持っていたが、特別何かしているわけではない。持って生まれた物というやつだろう。
顔立ちは少し童顔っぽいと言われるようなものだ。
少し暖かいせいか、額に一粒の汗が流れる。もちろん学校の制服も、もう夏服。
バス停が見えてきたところで、香奈は自転車のスピードを落とした。
まだバスが来ていないところを見ると、祖母もまだなのだろう。
バス停に着き、自転車を降りたところでちょうどバスの姿も見えてきた。
バスが鈍い動作で止まり、戸を効果音とともに開ける。いつも思うが、なぜ効果音が付くのだろう。
二、三人程度しか乗っていなかったようで、すぐに目当ての人物は見つかった。
「お婆ちゃんっ!」
香奈が久方ぶりに見る祖母の姿は、あの幼い頃と大して変わっていなかった。
もちろん、白髪が増えたり、しわが増えていることはあったが、大まかなところは全く変わっていない。
「香奈ちゃん。どうしたの? こんなところまで」
「お婆ちゃんを迎えにね」
「そう……。ありがとう」
祖母は穏和な笑みを浮かべながら、香奈に面と向かって言う。
祖母は、相変わらず香奈の知る祖母であった。優しい微笑みと、ゆったりした口調。
――香奈ちゃん。
この名前を呼ぶ響きも、幼い頃と変わっていない。
それが香奈には無性に胸に沁みた。
「はい。香奈ちゃん、これ」
祖母が差し出した手に握られていたのは、包み紙に包まれた、一粒の飴玉だった。
――ハッカ飴。
相変わらず、香奈の祖母はこれをいつもくれる。
だけど、それでも、香奈はやはりこのハッカ飴を好きにはなれなかった。
「うん。ありがとう、お婆ちゃん。後で食べるね」
香奈は祖母のくれたハッカ飴をスカートのポケットに突っ込んだ。
もちろん、食べるつもりはない。
「じゃあ、行こうか。お婆ちゃん」
香奈は自転車を片手で持って、もう片方の手で祖母の手を取る。
それに応えるように、祖母も香奈の手を握り返した。
二人はその後、一歩ずつ足を踏みしめながら、家に帰った。
幼い頃と今では違うのだと、香奈が感じ始めたのは、祖母と一緒に暮らし始めて三週間が経った頃だった。
昔は良かった。
自転車にはまだ乗っていなかったし、ましてバスなど。乗ったとしても祖母と一緒であった。
だが、香奈はもう高校二年生なのだ。あのときから、すでに十年以上経っている。
正月は数日会うだけだから判らなかったが、一緒に暮らし始めたことでその違いが徐々に形を出してきていた。
「じゃあ、行ってくるね」
「香奈ちゃん、どこ行くの?」
香奈が外出しようとすると、決まって祖母は聞いてくる。
玄関で立ち止まって、香奈は祖母の質問に答えていた。
「何時に帰ってくるの? 車に気をつけるのよ」
まるで、時があの幼い頃から動いていないように、祖母は香奈に言ってくる。
もちろん、香奈も初めは懐かしさも感じて、ちゃんと祖母に応えていた。
「友達のところに遊びに行くだけだよ。大丈夫。夕方には帰ってくるから」
「そう。じゃあ、これ持って行きなさい。途中で食べるお菓子よ」
そして、祖母はやはり決まったように握ったハッカ飴を香奈に渡すのだ。
「……ありがとう。お婆ちゃん」
一瞬、躊躇いが出たが、香奈は素直にハッカ飴を受け取ってスカートのポケットに入れた。
祖母と暮らし始め、香奈は一体何回ハッカ飴をポケットに入れたのだろう。
一体、何回口から捨てたのだろう。
「じゃ、行ってくる」
香奈は祖母に手を振ると、玄関の扉を開けて外に出て行った。
次第に、香奈は祖母の言葉に応えるのに苛立ちを覚えていた。
もう子供ではない。
干渉されたくない。
いちいち聞かないでよ。いちいち言わないでよ。
そう、香奈は思い始めていた。
「香奈ちゃん。今日はどこに行くの?」
「うん……。ちょっと、ね……」
「…………あまり遅くならないようにね」
「……うん」
祖母の寂しげな笑みが、心に刺さるのを感じる。
それでも、香奈は苛立ちのほうが勝ってしまっていた。
その休日の香奈は、朝に嫌なことがあって不機嫌だった。
窓辺に置いておいた携帯が外に落ちて、壊れていたのだ。
香奈の部屋は二階で、外に落ちたら一溜まりもない。明らかに自業自得なのだが、納得はしても機嫌が直るほど、香奈は出来た高校生ではなかった。
それでも、昼過ぎになれば機嫌も少し治まってきたので、香奈は友達の家で勉強をすることにした。
部屋の化粧台で恥ずかしくない程度の化粧を済ませ、服もパジャマから着替える。
黒髪を暴れるように舞い上がらせながら、香奈は急いでバッグを持って玄関まで降りた。
靴箱からスニーカーを取り出し、指を使って履こうとした。
その時。
「香奈ちゃん。どこか行くのかい?」
後ろからいつものように言葉をかけてきたのは、祖母であった。
「……うん。ちょっとね」
靴を履くのを止め、香奈は祖母の方に向き直る。
祖母の不安げだった表情が、ふと柔らかな笑みに変わる。
そして、少し言いにくそうに喋り始めた。
「実はね、出かけるのなら、ちょっとお婆ちゃんも連れて行ってほしいのよ」
――え……。
香奈は思いもしなかった祖母の言葉に、少し呆然とした。
構わず、祖母は続ける。
「この辺にね、ハッカ飴を作る良いミントが売ってる店があるらしいのよ……。お婆ちゃん、そこでそのミントを見てみたいの」
そういえば、この辺にはそんな店があったな、と香奈は記憶を返していた。
そして、どうしようかと考えた。
いや、それ以前に、既に面倒くさいと思い始めていた。
別に友達の所に早く行かなければいけないわけではないが、祖母のおっとりすぎる話し方と、好きでもないハッカ飴のために行くのが嫌だったのだ。
「ん……。別に、今日行かなくても良いんじゃない?」
この一言で、祖母が諦めてくれていたら良かった。
しかし。
「でも……。できれば今日行きたいのよ、お婆ちゃん」
――なんで、私がお婆ちゃんのために。
香奈の頭に無意識に浮かんだ言葉が、苛立ちを大きくした。
それに、祖母の笑顔も憎らしく感じてしまった。
「私、今日色々あるし……」
本当は何もない。
ただ友達の家に行くだけだ。
「でもね……」
その引き下がらない祖母の一言が、香奈の中に溜まっていた何かを吐き出させた。
「……いい加減にしてよっ! そんなおいしくもないハッカのためにっ!」
俯いて怒声を吐いたあと、身を強張らせて驚ろく祖母を尻目に、香奈が家を飛び出した。
ムシャクシャしていた。
どこか、静かなところに行きたかった。
結局、香奈が着いたのは図書館だった。
友達のところに行くはずだったが、静かなところで落ち着きたかったからだ。
椅子に座って、呆然としながら、天井を見上げる。
――言っちゃった……。
ここまで来て、後悔が出てきた。
今まで祖母にあんなこと言ったことなかったのに。
特に、ハッカ飴のことをおいしくないと言ってしまった。
きっと祖母は、自分が美味しいと思っているのだろうと作っていたに違いない。それを十数年経って、今さらに踏みにじったのだ。
――この辺にね、ハッカ飴を作る良いミントが売ってる店があるらしいのよ
祖母が笑顔で話す言葉が、離れず香奈の頭にある。
もしかしたら、どこか自分は祖母に見下した視線を持っていたのかもしれない。
それが幼い頃と変わった、自分なのかもしれない。
祖母のことを判ってなかったのは、自分だ。
そう思うと、香奈は自分が憎らしくなってきた。
机にうつ伏せになって、顔を埋めた。
いつしか、香奈は眠りについていた。
「香奈ちゃん……。香奈ちゃん」
白い世界で、香奈は誰かに肩を揺さぶられている感覚がした。
虚ろに目を開けてその肩に置かれた手を見ると、それは、細くて、しわがあって、それでも優しそうな手だった。
「……お婆ちゃん」
その手だけで、香奈は誰なのかすぐに判った。
後ろを向くと、あの柔らかな笑みを浮かべて、祖母が立っていた。
「お婆ちゃん……」
同じ言葉を香奈は繰り返す。
「香奈ちゃん……。ごめんね。お婆ちゃん、香奈ちゃんのこと全然判ってなくて」
俯いて、祖母は香奈に「ごめんね」と繰り返した。
でも、香奈は首を振った。
違う。謝るのは祖母ではない。自分だ。
「違うの。謝るのは私なの……。ごめんね。ごめんね、お婆ちゃん。あんな酷いこと言って」
香奈は肩に乗る祖母の手に自分の手を重ね、繰り返した。
いつしか、香奈の目には涙が浮かび、頬を伝わる。
――私は、自分のことしか考えてなかった。
祖母の気持ちを考えてなかった。祖母の心を考えてなかった。
自己嫌悪の気持ちが膨らみ、額を祖母の手に預けるように乗せて、香奈は泣いた。
ただ、「ごめんね」と。
涙が床に水晶のようにこぼれていく。
祖母のもう片方の手が自分の頭に乗せられるのを、香奈は感じた。
香奈が涙を拭って顔を上げると、祖母は柔らかいだけじゃなく、美しい笑みも浮かべて香奈を見つめた。
そして。
「良かったわ……。香奈ちゃんが怒ってなくて」
香奈の頭を撫でた。
気づくと、香奈の目の前には木材の模様があった。
更に一瞬遅れて、自分が木材の机で寝ていたことが理解できた。
「お婆ちゃん……?」
周りを見回しても、祖母の姿は一片もなかった。
夕方でもうすぐ閉館だからか、人もかなり少ない。
香奈には理解できなかった。
さっきまで、ついさっきまで祖母が傍にいたのだ。なぜ、いないのだろう。
香奈は椅子からバッグを持って立ち上がって、ふと机に目を落とすと、そこに丸い包み紙があることに気がついた。
「飴……?」
呆然と、香奈は包み紙を手にとって広げる。
そこには白くて、丸くて、微かな粉末のついた、一つのドロップ飴。
「お婆ちゃんの……ハッカ飴」
やはり、ここに祖母はいたのだ。
そう確信した香奈は、ハッカ飴を包んでポケットに入れ、急いで図書館を出た。
外に停めてあった自転車の鍵を外し、スカートがめくれることも構わずに香奈は漕いだ。
――お婆ちゃん……!
なぜ帰ったのだろう。
そんな疑問も考えず、香奈はきっと家にいると思って自転車を漕いだ。
進むにつれて、息が荒れてくる。
早く祖母に会いたかった。そして、一緒に今朝のミントの売ってる店へ行こうと、言いたかった。
家が見えてきた。
本当は自転車を停めるのは家の奥だが、構わず塀の前に停めて、香奈は玄関に行った。
「お婆ちゃんっ!」
戸を開けて、香奈は祖母を呼んだ。
しかし、次の瞬間には、香奈の動きが止まっていた。
玄関の電話の受話器を取り、「はい、はい」と、静かに繰り返す母親。
その隣で、暗い顔をして俯く父親。
――何……?
どこか様子がおかしかった。
それに、呼んだにも拘らず、祖母の姿は出てこない。
「判りました」と、母親が喋って受話器を下ろした。
香奈は、このとき、既に嫌な予感がしていた。
そんなはずない。そんなはずない。
心で繰り返して、恐る恐る母親に聞いてみた。
「……どうしたの?」
母親は香奈のほうを向き、静かに、その言葉を紡いだ。
「お婆ちゃんが……亡くなったの」
葬式や通夜は、祖母の実家で行なわれた。
どうやら、祖母の知人も多いしとの理由だったが、そんなことは香奈にはどうでも良かった。
祖母は一人でミントの売ってる店に出かけようとした際に、玄関で急に倒れたらしい。
原因は、気づかずに成長を続けていた脳腫瘍のせい。これは、亡くなった後で判ったことだ。
母親が祖母に気づき、救急車を呼んだが、既に息を引き取った後だったそうだ。
香奈は判らなかった。
なら、どうして自分のところに、祖母がやってきたのだろう。
香奈は両親にそのことを話したが、信じてくれるはずがなかった。
なぜなら、そのとき祖母は既に亡くなっていたのだから。
――でも。
でも、香奈の触れたあの指は、手は、確かに祖母のもので。
香奈の心にそれは何もかも残っている。
あの柔らかな笑みも、あのおっとりした口調も。
最後の言葉も。
――良かったわ……。香奈ちゃんが怒ってなくて。
そして、いまポケットの中で手に触れる、ハッカ飴も。
喪服のまま、香奈は祖母の家の中に入っていった。
外では線香をあげたりと、知人、血縁がやっている。
昔、祖母はここで香奈を可愛がってくれた。
いまでも目を瞑れば浮かぶ。
全て。
――はい、香奈ちゃん。お菓子よ。
――うん。ありがとう! お婆ちゃん。
香奈は包み紙に入ったハッカ飴を、ゆっくりと取り出す。
その自分の仕草が妙に懐かしくて、悲しくて、香奈は涙を流していた。
頬を伝わって落ち、畳の上に滲んで消える。
コロコロとハッカ飴を口に含んで舐めながら、香奈は床に座り込むしかなかった。
「……やっぱり、これはおいしくないよ。……お婆ちゃん」
それでも、香奈はハッカ飴をコロコロと舐めた。
「おいしくない」と、言いながら。
ハッカ飴が嫌いだ。
あの舌を刺激するような味覚が、どうしても好きになれない。
でも――お婆ちゃんのハッカ飴は、大好きだ。