ボーイギャザーガール

「――ねえ、聞いてる?」
 不機嫌そうな女の声が聞こえて、山内正吾はハッとなった。正確には、ぼーっとしていた意識が声によって引き戻されてきたのである。
「う、うん、聞いてる」
 だから、正吾はあわててそう言いつくろった。
 数歩先の距離を行く女――正吾の彼女である西ノ宮美香は、明らかにそれを信じていなかった。じと……と目を細くする。
「ほんとかなー?」
「ほ、ほんとだよ」
「じゃあ、私が何を言ったか、言ってみせてよ」
「え? えーっと……」
 当然、覚えているはずもなかった。正吾はしばらくうんうんと唸っていた。が、美香の顔と宙とを視線でさまよううちに、やがて、彼は頭を垂れた。
「……すみませんでした」
「最初っからそう言えばいいのに」
 呆れ返る美香は嘆息して、そして言った。
「明後日、一緒に遊園地に行こうよって……そう言ったのよ」
「それって……」
 わずかに顔を紅潮させて歯切れ悪そうに言う美香から視線を外して、宙を見上げながら正吾はなにやら考える仕草をした。どうやら自分の中の思考回路を巡っているようだ。とりあえず、思いつく限りの知識を総動員し、結果的にはやっぱり最初に思い至ったものしか考えられなかった。
「……デート?」
「だあああぁぁ、そんなストレートに言うなぁ」
 なんの気はなしに口にする正吾に対して、美香はくしゃくしゃと頭をかくように悶絶した。どうやら彼女は恥ずかしいようだが、いわゆるカップルの関係であるのだから今さら……と正吾は思った。だが、案の定、それを口にしてみせると……
「甘い!」
 美香はビシっと指をさしてきた。
「そういうクールな関係が、徐々に冷たくなって恋人の間をドライなものにしていくんでしょ」
「そういうもんかなぁ」
「そういうもんなの!」
 再びビシッと、今度は声だけで正吾に言い返した。正吾自体はいまだに納得がいかないというか、腑に落ちないように唸っていたが、そんなことはどうでも良かったのか、考えるのを諦めた。彼女がそういうのだから、きっと世間一般的にはそういうものなのだろう。自慢ではないが、正吾は自分がそういうことに無頓着なことをちゃんと理解していた。
 そうこうしているうちに、二人はお互いの家路へとつく分かれ道にたどり着いていた。すでに空は夕日が落ち始めており、オレンジ色が住宅街の十字路を染め上げていた。もちろん、二人の顔も。
「えーと、場所は志野浜公園、10時集合! 了解?」
「了解」
「うんうん! それじゃ、また明後日ね!」
 満足そうに頷くと、美香は手を振ってから十字路の右側を背を向けて走り去っていった。それを見送って、正吾はデートのことに想像をめぐらせながら呟いた。
「お弁当、作っていかなきゃな」


「いやあああぁぁっほおぉぅう!」
「うわああああぁぁぁたすけてえええぇぇ!」
 歓喜して張り上げられる美香の声と、泣き叫ぶ正吾の声。笑顔で楽しそうにはしゃぐ美香に対して、正吾のそれは普段の彼からは想像できないほどのわめき方だった。ビュンビュンと過ぎ去る風の音が邪魔であるため、聞こえるようにとにかく大きな声で美香は言った。
「あははははははっ! 楽しいわねー、正吾ー!」
「ぜんぜんたのしくないいいいいぃぃ!」
 二人はいま、ジェットコースター真っ最中だった。


 ジェットコースターを終えて、正吾はベンチに座っていた。いや、座っているというよりかはかろうじて身を預けているというところか。ぐでんと憔悴しきった様子で、首を倒して空を見上げ……ああ、動かない青空って素敵だな、とか思っている最中なのであった。
「なーにくたびれてんのー。ほい」
 そんな彼のところに缶ジュースを両手に一本ずつ持った美香が戻ってきた。彼女は冷たい缶ジュースを正吾の視界を覆うようにしてチラつかせてやる。
「オレンジとグレープ、どっちがいい?」
「ん……オ、オレンジ……かな」
 ようやく首を持ち上げて、正吾はオレンジジュースを受け取った。
 遊園地、である。視界に広がるのはたくさんのアミューズメント。たとえば人を乗せて振り子の要領で揺れる模造の帆船であったり、しっかり乗客を固定すると一気に高度何百メートルなんていう高さまでたった数秒で昇ったりする昇降機であったり、ファンタジーに出てきそうな馬に乗って音楽に合わせて円形状に回ったり……大体、オーソドックスなところだ。
 それでもこの市内ではかなり大きな遊園地であるし、子供も楽しめて大人も楽しめるところから、かなり賑わっていると言えた。特にこの遊園地の目玉であるドラゴンツイスターという名のジェットコースターは、その手のマニアからも支持を受ける出来栄え――らしい。
「ジェットコースターひとつで根を上げるなんて、男らしくないわねぇ」
「あれは絶叫系が苦手な僕じゃなくても、根を上げそうなものだけどね」
 正面にあるその例のドラゴンツイスターから出てくる人は、とにかく笑顔でご満足な様子の絶叫系マニアか、あるいはぐったりとしてここはいま本当に地上なのか……とか思っている人の二つに二分される。
 当然、正吾は後者だった。というか、ほとんどは後者なのであるが。
「うーん、そろそろ乗りつくしてきちゃったわね」
「そうだね。あと乗ってないのは……アレぐらいかな」
 そう言って正吾が指をさしたのは、遊園地といえばアレがあると言っていいぐらいのアミューズメントの大目玉だった。たとえ遊園地の存在を知らなかったとしても、アレさえ見えればそこに遊園地がある、ということはすぐに判断できるぐらいの代物だ。
 まるで来場者たちを見守るかのよう遊園地の中央にあるそれは、穏やかに、そしてゆっくりと回転していた。


 ゴンドラに乗ると、一度だけ足元が揺れたような気がした。絶叫系にも通ずるそれに少しだけ怯えが顔を出したが、すぐに引っ込むと、それは静寂と遠い声の狭間に消えてしまった。
「あ、見て……動いてる」
 対面に座る美香はそう言って、身を乗り出すように外を眺めた。それにつられて正吾も外を見やる。徐々に高くなっていく視界が、少しずつ遊園地の様子を小さくして……やがてそれ以外の外の景色も見せてくれた。
 そんな景色を目の当たりにしながら、二人は今日のデートのことを振り返るような話をした。たとえばそれは、絶叫系に乗るたびに設計者の期待通りの絶叫をあげていた正吾のことであるとか、あるいはお昼に食べた彼の作ったお弁当であるとかだ。
 そんな何の変哲もない会話のうちに、観覧車は真上に達しようとしていた。景色は広大なものとなって、まるで丘の上から見下ろした壮大な景色のようなものが広がっていた。何より、向こう側に伸びる永遠のような海の景色が、二人の胸を高揚させてくれた。
 気づけば、感嘆の声をあげて二人は無言になっていた。いつもは正吾を引っ張るようにしてはしゃぎまくる美香も、なぜかこのときは静かに海を見下ろしていた。
 ふと、正吾の頭の中に過ぎることがあった。それは、彼女が自分に告白してきてくれたときのことだった。それまでただのクラスメイトであった存在が、一気に気になる存在になった瞬間だ。物事に積極的ではなく、静かにクラスの空気に溶け込んでいただけの自分を、どうしていつも元気でみんなのムードメーカーのような彼女が好きになったのか。
 時々、自分はきっと彼女につりあわない存在で、もっと彼女にふさわしい存在が彼女の彼氏になるはずだったけど……悪戯な神様がどこかで運命をいじくってしまったのだ。そんなことを考える。
 だけど……僕は彼女が好きで、彼女は僕が好きだと言った。今はそれだけが、確かであればそれでいいと、正吾は思った。
 やがて、ゴンドラが真上から過ぎた頃――。
「ねえ、正吾」
「……ん?」
 美香が正吾を呼ぶと、彼は景色から彼女へと視線を移した。美香はいまだ外を眺めていた。言葉を促すようなことはしなかった。だが、彼女は正吾に向き直ると、笑顔で言った。
「幸せだね」
 その笑顔は、少しだけいつもと違う気がした。二人ではじめて乗った観覧車。はじめて上空から二人で見た景色は美しくて……羨ましかった。
「うん、幸せ」
 そう言って、正吾は美香のように笑ってみせた。