My Dream Call

 コンサート会場では幾千人という大勢の観客が息を呑み、静寂の訪れに緊張を隠せなかった。それは決して舞台に上がる緊張とは別物であったが、それでも観客は待ちわびる≠ニいう緊張に包まれていたのである。
 無論――子供とて例外ではない。
 少年は右隣にいる母の顔を覗き込み、そして、会場全体を見渡していた。
 まるで自分一人だけが取り残されたような感覚を覚え、彼は母の手に無意識に触れていた。
「そーくん、どうしたの?」
「う、ううん、なんでもない」
 極力小さな声で話していた二人の耳に、ブザーと思われる音が届いた。
 次第に収まりを見せた音が消え去ると、更に静寂は深みを増した。もちろん、少年もさすがにこれ以上は落ち着きのなさを見せることはなかった。
 舞台の袖からすっと現れた影を視界に収めたとき、観客は皆、視線を一点に集中する。対し、集中の対象となっている影は、自身の両手に持つ弦楽器を静かに構えた。
 武藤誠二――ヴァイオリン奏者として世界に名を轟かす日本人演奏者である。
 彼の弾くヴァイオリンはそれだけでも一つの大合奏に匹敵する。彼は、無造作に伸びた髪を後頭部にて尻尾のように結んでいた。それを確認した少年は、演奏者とはみんな、こういった格好なのかと思ってしまった。
 そんな他愛のない考えが頭を回っているとき、すでに武藤は顎でヴァイオリンを挟んでいた。左肩に乗せられたヴァイオリンの体躯は室内灯とニスによって輝きを見せており、美しい宝玉のようにも見えた。
 少年は、気づかぬうちに自分の胸を掴んでいた。心が鼓動しているのが感じられ、自分の視線が既に武藤誠二しか見ていないことを認識させた。
 何かが始まる予感。少年の感じたそれは、生まれたての鳥のように、急速な羽ばたきを見せた。
「わぁ……」
 漏れてしまった声は感嘆と賞賛と高鳴り。そして、それらを一言で表すならば、それは出会い。
 少年は出会ってしまった。
 まるで流れる川のように、旋律は緩やかにはっきりと紡がれる。次第に静まったかと思わせると、それは上昇を見せて迫力を増す。
 たった一人で何千人という人間の心を動かす武藤誠二の演奏は、少年の心を奪ってしまった。
 そして、少年――中尾壮一は気づいたのだった。
 いつしか自分の緊張が、興奮と呼ばれるものになっていたということに。

1


 晴天に恵まれた花壇の花々は輝きを持つかのように美麗。運動場では汗を流す部活動生の声が清々しく響いていた。
 そんな潤いある学校で混ざるように流れる音がある。旋律は人の心に染み込むよう、それでいて煌びやか。しかし、その演奏には洗練された者に敵わない未熟さが見られた。
「ん……。また間違えた」
 中庭の木陰でヴァイオリンを弾く仲尾壮一は、一度その演奏を中断した。
 ニスによる光沢の増しで、壮一のヴァイオリンは少々の傷があれども綺麗である。そんなヴァイオリンを片手で持ちつつ、楽譜に目を通していた壮一に少女の声がかかった。
「壮一」
「なんだ、綾か」
 長髪を風に靡かせてやってきた新賀綾は、壮一の側に座った。
 樹を背もたれにして、軽く吹く風を肌に感じているようである。綾は大人っぽく、自分よりも年上に見える。友達からは、釣り合っていないとも、言われたことがあった。そんな彼女が自分と付き合っているのは、一種の不思議でもあった。
「やっぱりここで弾いてたんだ」
「ここが一番落ち着くんだよ。俺には」
 はにかんだような笑顔を浮かべながら、壮一はヴァイオリンを床に降ろして自身も座る。
 木陰の涼しさが風で更に増し、気持ちが良い。もはや日課になっているこの昼休み演奏。音大に入るという目的のため、壮一はひたすらに練習を重ねている。それは楽しい努力であり、自分の心を削るようなものではない。
「壮一のヴァイオリンが、私は好きだな」
 唐突に言い出した綾の一言。
 考えると、壮一はその一言のために頑張っているのかもしれないと思う。実のところ音大に入るというのは建前で。
「壮一は自分のヴァイオリン嫌い?」
 綾の顔は壮一を向いていない。
 空を見上げ、雲を目で追うようにしている。
「嫌いじゃなきゃ、弾いてねぇよ」
「そっか。そうだね」
 他愛ないこんな時間が幸せに感じた。
 壮一は再び立ち上がってヴァイオリンを構えると、その美しき音楽を奏でた。右手に握られる弓が動くたび、まるで鼓動する心臓のように絃は揺れる。いや、それは本当に呼吸しているのかもしれない。
 楽器の呼吸こそが、音楽を生み出すのだろう。
 壮一と一心同体となっているように、まるで身体の一部のように、ヴァイオリンは音を吐いた。
 そして綾と壮一の時間は流れていく。止まることなく、流れていく。

2


「え、マジで? 仲尾に彼女なんていたの?」
 中庭――次の講義へと足を運んでいた壮一の横で、意地の悪そうな声が聞こえた。それは壮一の友人でもある菊池晶彦の声であった。
 焦げ茶に染めてある髪が妙に合っていて、むしろ元々の黒髪が染めているのかと思ってしまう感じの男である。
「本当だって。ねえ、壮一?」
 青年と壮一に挟まっている女、日野瀬由美が壮一に話を振ってきた。
 ショートカットの髪は活発な雰囲気を醸し出している。そして、彼女自身その通り、活発な気性の女性であった。よく羽目を外すと言ったほうがいいのかもしれないが。
 壮一は、正直に言えばあまりその話題を話したくなかった。が、それもそれで話の腰を折るのは気まずい。とりあえずは適当に応えることにした。
「別に、今さら彼女ぐらいで驚くことじゃないだろ」
「いやいやそれは違うぞ、仲尾」
 飄々と横に来ると、晶彦は壮一の首に手をかけてくる。
 晶彦の唇に挟まれている煙草の煙が近く、壮一は顔をしかめた。特別に煙がダメではないが、どうも苦手なのである。
「お前みたいなヘタレにまさか彼女がいるなんて、知り合って半年にして初めて知った事実。ショックだ……」
「俺にはお前が何でショックを受けるのかが分からん」
「で、どんな娘どんな娘?」
 興味津々とばかりに寄ってくる晶彦を追い返しながら、壮一は足を速めた。
 しかし、それで諦めるのは晶彦ではない。今度は壮一の高校からの同級生である由美に聞いていた。
「どんな娘なの?」
「それがね、東京の美大にいるの」
「美大!? へぇ、彼氏のほうはこんな三流大学だっつーのにねぇ」
 にやにやとした笑いを作り、晶彦は壮一の横まで追いついてくる。もちろん、由美も一緒であった。
「壮一のほうは音大落ちたんだもんね」
「うるせぇよ、同級生」
 本気ではないが、笑う由美を壮一は叱責した。
 微妙に変な雰囲気。それはきっと壮一の蟠りにも似たものからきているのだろう。
 壮一は由美達と歩きながら少し昔を思い出してしまった。ヴァイオリンと木陰と新賀綾。
 それは未練か。あるいは不満か。それとも――。

3


 青い空。しかし、それはどこか自分の見ていた空と違う気がする。
 いや、それ以前にどこの空を見ていたのだ? 自分の焦がれていた空が何なのか。そんなどうしようもないことを考えながら、壮一はベンチに座っていた。
 まだ昼間ということもあって、中庭には人が何人かいる。寂れているようでそうでもない床や、手入れだけはされている花壇の花が不釣合いであった。
「やっ……と、まだ何か怒ってる?」
「……大体お前ががよけいな事を晶彦に言うから」
 由美がジュースの缶を二本持って壮一の隣に座る。その一本は壮一へと持ってきたものだ。
 彼女は壮一にジュースを渡すと、自分の缶を手馴れた動作で開けた。
「よけいな事かな?」
 その由美の言葉が、壮一の中に刺さる。
「綾とその後の連絡は?」
「ほとんど取れてない。メールも月に一回ぐらい」
 綾は女子の友人も比較的少なかったようで、そんな中でも由美は綾と親しい友人であった。
 そんな由美と同じ大学に来てしまったのは運命でもなく、ただちょうど良いレベルの大学がここだったというだけ。壮一はもっとよく考えて大学を選べばよかった、と思った。もはやそれは手遅れだが。
「昔からそんなにベッタリするタイプじゃなかったけど……壮一は話したくないの?」
「別に。俺だって本当は話したいんだけど」
 缶ジュースをちびちびと飲みながら、壮一はベンチを立った。
 由美もそれについてくるように歩いてくる。
 本当はメールも返してほしい。会って話もしたい。しかし、それでも彼女とはどこか途切れている気がするだろう。それは半年前のあの時から。
 音大に落ちてしまって、ヴァイオリンもやめたあの時からなのだ。
 壮一は縋るように半年前を思い出していた。そして、思ってしまった。
 時間は、確実に動いていたのだと。

4


「やめるの、ヴァイオリン?」
 その言葉はまるで断絶を思わせる鋭い指摘であった。
 新賀綾の表情は哀れむような陰りを持ち、それを見ることを壮一に拒ませた。
 見てしまうと、まるで今の自分を見ているようで苦い思いに駆られるからだ。綾が自分の全てを見透かしているように感じているからだ。
「もうやる気、しないんだよ」
「諦めるんだ、夢」
「夢なんて、叶わないから夢なんだろ」
 吐き捨てるような言葉。
 壮一は顔を綾から逸らした。いや、綾からではなく、綾の持つヴァイオリンから。それは壮一愛用のヴァイオリンであり、何年も一緒にいた存在。同じ道をひたすら歩んできた物。
「これ、持っていってよ」
「もう止めるんだって……」
「でも、好きなんでしょ? ヴァイオリン」
 穏やかで、それでいて悲しい言葉だった。
 壮一は理解していた。そう、自分はヴァイオリンが好きだ。
 何よりヴァイオリンが好きで、だからこそ音大に行きたかった。もっと上手くなりたかった。
 しかし――
「好き嫌いで通用するもんじゃねぇだろっ! 音大落ちたんだよ! 才能ないって事じゃねぇかっ!」
 壮一の溜まっていた蟠りは、引き金を引くようにぶちまけられた。
 ヴァイオリンを床に置いて、綾は去っていった。
 その距離が、壮一にはとても遠く感じた。ほんの数メートルなのに、二人の距離は何キロもあるような気がした。
 ヴァイオリンを持ち上げたとき、壮一の前から、綾はもういなくなっていた。

5


 由美と自宅に入ったとき、壮一を迎えたのはまるで自分の部屋のようにくつろぐ晶彦であった。
「なーに、人の家に勝手に上がり込んでんだ」
 晶彦は缶ビールを片手に椅子の上で片足胡坐をかいていた。
 ジーンズに着崩したよれよれのシャツで、必死にテレビゲームに夢中になっていた。
「いい加減にうちのビール勝手に飲むの、やめろよ」
「なに言ってんだよ、壮一。俺と日野瀬は寮生活だし、集まる場所と言ったらここぐらいしかないだろうが」
 テレビからは目を離さず、晶彦はビールの件をうやむやにした。
「あ、晶彦。私の分のつまみ残しといてよ」
 由美はそそくさと晶彦の側に腰を下ろす。
 壮一は荷物を降ろすと、自分の分のビールも取ろうと冷蔵庫へ向かった。冷えたビールが手に取るだけで気持ちよく、それをちびちびと飲み始める。
「壮一って音大受けたんだよな。で、もう音楽やらないわけ?」
「あー、もう、すっぱり諦めたよ。結構、人生の諦めは良いほうでしてね」
 晶彦にしてみれば、それは他愛ない質問だったのだろう。
 もちろん壮一も知っていて他愛なく返事を返した。しかし、どこかで何か渦巻いている気がする。
 諦めは良かったのだ。昔から。まるで自分に言い聞かすように、壮一は言葉を胸の内で吐いていた。
「でも、それにしては未練あるんじゃねぇの?」
 晶彦がそう言って指差した先、開かれた押入れの中には、歪曲の木製楽器が置かれている。整備されていないためか光沢の輝きは失いかけ、埃をかぶっていた。
「いや、それは綾が俺に渡してったからさ。いずれ返そうと思ってるんだけど」
「彼女さんか……。でもよー、それってその子なりの励ましなんじゃねぇの?」
 晶彦はまるで新賀綾を知ってるかのように壮一に問いかけた。
「俺も昔、野球選手の夢追っかけてたけどよ。今でもたまにボール投げたくなることがあるぜ――ってあぁっ!?」
 テレビ画面に出る「ゲームオーバー」の文字に落胆した晶彦は、後ろに振り向いてゆっくりとその押入れのヴァイオリンを手に取った。
 手垢も所々に付いているヴァイオリンは、壮一とともに歩んできたことを物語っている。
「お前……本当に諦めたのか?」
 弓とヴァイオリンを突き出すように晶彦は壮一へ渡した。
 彼の言の葉に宿るのは、試すような心。壮一の頭の中、暗黙の世界でいつだったかかつての声が聞こえる。
 
 ――でも、好きなんでしょ? ヴァイオリン。
 
 好きだった。いや、好き、だったのか?
 でも、それでも諦めるしかないだろう……?
 壮一はヴァイオリンと弓を目下で眺め、木陰を思い出していた。そしてヴァイオリンの音が静かに流れていた。
 かつて、自分が見ていた光景がある。それは、両親とともに行った演奏会。
 大きなホールの下、眼下に広がる演奏家たちの中で、ひときわ輝くヴァイオリン奏者の名は、武藤誠二と言った。
 まだ若々しく、青年であった武藤誠二は、壮一の心を貫くような力強い演奏を奏でた。
 いつか自分が立てた夢の到達点がある。
 『武藤誠二のようになってみせる』
 いま自分は、彼からあまりにも程遠い。

6


 数日が経って、大学も休みのとある日。気がつけば壮一は弦楽器専門店に足を向けていた。
 ドアを開けると店員がにこやかに挨拶をしてくる。電灯の光が薄く照らす店内には木製の弦楽器――どれも一度は見たことがあるヴァイオリン属が置いてあった。
 チェロ、コントラバス、ヴィオラ、そしてヴァイオリン。
 弓を手に取ると手に吸い付く感触が、ヴァイオリンを手に取ると過去の重みが。
 半年しか経っていないのに感じている懐かしさに、壮一は自分でも驚いた。
「あ、壮一じゃん!」
 と、急にかかる女特有の声。
 壮一が横に振り向くと、そこには日野瀬由美がパンフレットのようなものを手に立っていた。
「へぇ、やっぱ今でもこういうとこ来るの?」
「あ、いや、まぁね」
 壮一にとっては見られたくないところであった。
 ここに来たのは先の晶彦の言葉が頭に引っかかっていたからであり、言わば気が向いたからである。しかし、おそらく由美の立場からしたら、壮一がまだ興味があるのだと思っているのだろう。いや、実際そうなのかもしれないが。
「そういう由美こそ、ここでなにしてんだよ」
「いや、実はここの店長の知り合いなんよ。で、余ったこれをくれるって言うから来たわけ」
 由美はパンフレットに挟んでいたらしい長方形の紙を取り出すと、壮一に渡した。
 そこには、一人の演奏者がヴァイオリンを弾く姿が描かれていた。名は――
「武藤誠二……」
「知ってんの?」
「いや、つーか、ファンで……」
 歯切れが悪そうに壮一は呟いた。
 日本生粋ヴァイオリン奏者、武藤誠二。聴く者、そして観る者さえ引き込むその演奏は弓と弦のダンスとも呼ばれている。
 だからこそ、壮一はいても立ってもいられなかった。その紙には書かれている。
 『武藤誠二ヴァイオリンコンサート特別チケット』
「由美……」
「何よ?」
 訝しげに聞く由美に、壮一は思い切って言った。
 そう、心から出た言葉。
「これ、くれ」
 
7


 壮一は走っていた。もう夕闇も深くなっていたとき。
 コンサートが今日だと知ったとき、もう既に時間は迫っていた。壮一は歩いてきたのでバイクもない。由美はバイクがあるらしいが、彼女は貸してはくれなかった。そんな意地の悪さも由美らしいと言えばそうかもしれない。
 向かうはコンサートホール。走り続ければ何とか間に合うといった瀬戸際の状態。
 壮一の身体が熱くなっていた。いや、熱いのは身体だけじゃないかもしれない。
 ヴァイオリンコンサートを観るという目的のために、壮一は走る。
 もうヴァイオリンは諦めたはずなのに、まるでチャンスを逃したくない。
「はぁ、はぁ……はあぁ」
 ホールの影が目の前に見えてきた。
 壮一から見るそのホールは、どこか大きな存在にも見えた。
 周りの駐車場に車がほとんどあることから、もうコンサートが始まる直前だと分かる。
 扉を開け、チケットを業務員に渡すと、すぐにホール入り口まで行った。もう来た人は既に席についているのか、静けさが漂っていた。
 そして壮一がホールのドアを開けると、そこにはかつて憧れ、いや、今でもきっと憧れている武藤誠二の姿が見えた。肩口まで伸びた髪をくくり、タキシード姿が板についている。
 お辞儀をした武藤に、席を埋める観客が一斉に拍手を返す。それが嫌に壮一には耳に入った。
 再びの暗黙。舞台だけを照らすスポットライトの下、ヴァイオリンと弓を武藤は静かに構えた。
 しんと静まったホールの中、壮一は立ち見で武藤誠二を見つめる。
 心臓の鼓動が聞こえるぐらい、気づけば壮一は待ち遠しくなっていた。
 そして、流れるように武藤は弓を動かした。心を引き込むどころか、まるで洗うように入ってくる。それは弓と弦のダンス。旋律はホール内全てに響き渡り、人を捕らえて離さなかった。
 無論、壮一さえも。たまらなく全身が震えていた。
 ――まいったなー……やっぱうめぇーよ。
 興奮が全てを支配した。
 もう半年も経つというのに、壮一の心は死んでいなかった。いや、むしろ燻っていたのだろう。
 武藤の流れる曲を背に、壮一はそのままホールを出た。最後まで聞かずとも、あの音楽は、少なくとも壮一にとっては最高峰だった。
 外に出て、もう夜中になっている空を眺める。空気が冷たく、吐く息は白い。星の瞬きが薄く地表を照らしていた。
 まるで一人になったような感覚に、壮一は溺れていた。
「武藤誠二いぃぃっ! うめえぇよやっぱっ!」
 だから壮一は夜空に叫んだ。
 そして、携帯をすぐに取り出す。
 月に一度ぐらいしか話さない相手に、何を返してくれるのかは分からないが、言っておきたかった。そう、あの木陰で過ごした笑顔を忘れられないから。
 壮一はメールを打っていく。それはとても短い言葉。でもそれでいて言うのには長かった気がする。
 壮一は寒さで呼吸を荒らしながらも走っていった。
 ヴァイオリンのもとへと。

8


 キャンバスに筆を走らせていた綾に、メロディーが届いた。
 テーブルの上に置いてある携帯から聞こえてくるそのメロディーは、壮一用に設定した曲であった。
 もう夜だというのに、一体何なのだろうと訝しげになる。
 あのときから壮一とはほとんど連絡を取っていない。彼女だというのにそれではいけないのだろうが、どうしても今の壮一とは話をする気になれなかった。
 自分が好きだったのは、ヴァイオリンを弾く壮一だった。
 そう、ヴァイオリンが壮一で、壮一がヴァイオリンのようであったあの頃。綾はただ、壮一に戻ってもらいたかっただけなのだ。
 携帯を手にとってみると、着信ではなくメールが一通きていた。
 ゆっくりとそのメールを見てみる。件名は――『ただいま』
 それが目に映ると、綾は本文をすぐに見たくなった。
 そして、
「また、ヴァイオリン聴いてくれるか?」
 その文は何よりも綾の聞きたかった言葉を記していた。
 帰ってきたのだ、壮一は。あの頃の自分で。
 綾は微笑みながらメールに返信を打っていく。今度は自分が言わなければいけない言葉。いや、言いたい言葉。
 壮一のヴァイオリンの音が聴こえてくるようで、綾は嬉しかった。
 メールを返信し終わり、綾は携帯を閉じた。
「頑張ってね……」
 それだけを呟き、また自分のキャンバスに戻っていく。
 呟いた声が、壮一に届くのかどうかは、誰にも分からないことであった。
          
 自宅に駆け込むように入った壮一の携帯が音を立てた。
 綾からのメール受信音である。きっと、先刻送ったメールへの返信だろう。
 すぐにポケットから取り出して見てみると、件名にはこう書いてあった。
 ――『おかえり』
 本文を読んだ壮一は、少し微笑んだだけでその携帯を閉じた。
「また、聴かせてね」
 たったそれだけの一文。
 しかし、それだけが聞きたかった言葉。
 一体これだけの為にどれだけ時間をかけただろう?
 半年。そう、半年もだ。時間は絶えず過ぎていくものだと、壮一は改めて痛感できた。
 押入れを開けると、埃を被っているヴァイオリンと弓が、恋しそうに見ている気がする。
「ただいま」
 壮一は、応えるようにヴァイオリンが返事をした気がした。
 
9


 ヴァイオリンの流れる曲が響く。人を引き込むその演奏は、旋律さえも軽やかに美しい。しかし、それは聴く者が聴けばというレベルのものだった。
「おっかっしーなぁ。どこが違うんだろ?」
 壮一は弓と弦のバランスなど、演奏姿勢を見直しながらに愚痴る。
 壮一はヴァイオリンの調整もし、整備も終えた後に弾いてみた。
 とはいえ、決意は決意だけ。先はまだ大変ということであった。
 そして、素晴らしい演奏を聴くとまるで自分も上手くなったような錯覚を起こすものだが、結局錯覚は錯覚に過ぎず。
 武藤誠二と自分の違いを壮一は身をもって痛感しているときだった。
「でもま……」
 今はまた、再び歩き始める。
 それが遠くとも長くとも、ひたすらに歩き続けたいと、壮一は思う。
 いつか辿り着けるそのときまで。