Dark sense

 扉の上についているベルが鳴った。
「ありがとうございました」
 笑みを浮かべてからお客に会釈し、久賀智也はお客に満足そうな様子を見送った。懐に抱えた箱を眺めながら帰路につくお客の姿は幸せそうだった。客の姿が見えなくなって、久賀は「OPEN」の札を「CLOSE」に裏返した。今日はもう店じまいだ。彼は店内に戻って片づけを始めた。まずは軽い品物の前出しと掃除だ。早朝のお客様にも心地よい気持ちを味わってもらう。店を運営する者としては初歩的な心がけである。
 店内は静かだった。遠くから木霊のように聞こえてくるような都心の音だけが僅かな音楽となり、隔絶された空間であることを物語る。久賀智也の店――「夢乃屋」は都心の路地裏に店を構えるアンティークショップだった。もちろん、女性のお客様が多い。しかし、都心にありながら一種の別空間を生み出すレトロな空間に、男性のリピーターも少なくはなかった。
 片づけを終えて、久賀は中央の椅子に腰を降ろして一息吐いた。気づけば、太陽はすでにオレンジ色の日を差しており、店内に焼けたような色合いを生み出していた。
 夜が始まっていく。久賀は店のカウンターから数枚のプリントされた紙を取り出した。そして、再び椅子に腰を降ろしてそれを丁寧に確認していった。指先でなぞるように紙を確認し終えた頃には、夕闇の太陽が静かに息を引き取ろうとしていた。
 久賀の瞳がぼんやりと外を眺める。太陽の光が失われた頃、彼は奥から黒のジャケットを取り出してきた。古びたものだ。日に焼けて色あせ、端にはほころびがある。しかし、機能性に関してはこれに勝るものはない。久賀はエプロンを外してワイシャツの上からジャケットを羽織った。腰に見えるは、鼓動のように軋む黒い物体。久賀の双眸がすっと細みを帯びた。
 夜が始まる。眠れぬ夜が、始まる。

1


 深夜になるまで、久賀はただひたすら瞑想と鍛錬を繰り返すばかりだった。眠気は全く襲ってこない。むしろ時間が経つほどに冴えていく頭が、多くの情況情報を彼に教えてくれる。床をかすかに軋ませる都心の足音。肌に触れるほこりの感触。自分の空間に入るものは全てを感じるべきだ。久賀は常にそれを心がけている。神経と集中を研ぎ澄まし、拳銃を引き抜く。ずしりとした重みの銃把の感触が感じられた。発砲の構えには一部の隙もない。そして、ゆっくりと腰のホルスターへと収める。その一連の動作を繰り返すたびに、じっとりとした汗が背中と手のひらに広がっていく。
 さあ、そろそろだ。
 久賀は振り向いた。視線の先には奥の部屋に飾られる鉄板があった。貼り付けられた紙に描かれた円が、中心に行くにつれて小さくなっており、それがやがてたった一つの点となっている。狙うは、そこだ。
 久賀は内ポケットから取り出したサイレンサーを拳銃の先へ装着した。
 日本らしいな。
 久賀はくすりと笑みをこぼした。拳銃をホルスターへ収める。一瞬で引き抜いたそれを発砲すると、風邪を切り裂く空気の抜けたような音が鳴った。空薬莢が散り、床にからんと落ちる。硝煙が消えていくのを待って、彼は構えを解いた。弾丸を回収することなく、彼は店を出て行った。
 ベルが寂しく鳴った。鍵をかける音が店内に糸を引いた。鉄板に沈み込んだ弾丸は、見事に円の中央を撃ち抜いていた。
2


 ネオン管の明かりが眩い都会の街を久賀はゆったりと歩いた。夜には人が少なくなる。だが、それは一部に過ぎない。ある側面から言うならば、「大人」達が増え続けている。それが夜の街だった。ネオン管の明かりと夜にのみ開かれる大人の憩いの場に人々は陶酔している。一種の中毒効果にかかる者もいるだろう。夜の街は魅惑と活気に溢れていた。久賀はそんな人の波を避けながら顔を上げた。視界に入り込んだのは青く、そして巨大な塔だった。
 ブルータワー。街の人間はそう呼んでいる。
 頂点がドーム状になっており、展望台も備えられている。この街の象徴的な建物だ。もちろん、街を一望できることもあって、観光客も多く訪れる。正式名称は何だったか……。久賀は思い出そうとしたが、頭の中からは何も出てこなかった。
 ただ、思うに、この街の夜はブルータワーの鮮やかな色合いからはかけ離れている。まるでコーヒーの中に青の絵の具を垂らしたような、そんな濁った色がこの街の夜にはお似合いだ。ブルータワーは、そんな街を笑いながら見下ろしているようだ。
 久賀はブルータワーから視線を変えた。じっと目的の場所へと歩きながら、昨日の昼間のことを考えていた。

3


 二人の少女が店に寄った。まだ年端もいかない、少女と、成人には達していない娘だった。久賀でなくとも、すぐに分かっただろう。少女らは姉妹だった。妹は姉の手を握り、どこか不安げな表情で店内を見回していた。久賀は柔和な笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ」
「……あの、久賀、智也さん、ですよね?」
 姉が言った。彼女の視線は久賀のエプロンについているネームプレートに注がれていた。
「ええ、そうですけど。何か、お探しですか?」
「深夜のアンティークを、注文したいんですが」
 姉は少しだけ目を伏せるようにしていた。
 久賀はその目を見据えた。彼女の目は不安が入り混じりながらも、どこか決意に満ちた色合いをしていた。興味本位でもなければ、偶然の言葉でもないだろう。久賀は中央のテーブルに備え付けられた椅子を引いた。
「どうぞ、お座りください」
 姉妹は無言で席に座った。妹は相変わらず姉の手を握っていた。いや……姉が妹の手を離さないのかも、しれない。どちらにしても、久賀は思った。お互いを信頼しているのだな、と。
「それで、どのような仕事でしょうか?」
「母を、助けて欲しいんです」
 姉が言った。その瞳はいまにも泣き出しそうだった。
「お母さんを……?」
「数年前、母は、私達を残して借金のかたに連れて行かれました」
 姉はテーブルの下で妹の手をぎゅっと握りなおした。脳裏にかつての母の姿が過ぎる。強面の男達に連れて行かれながら、それでもなお私達の名を呼んでいた。その時の自分は、まだ中学生だった。
「父が残した借金だったんです。当時の私も連れて行かれそうになりましたが、運が良かったのか悪かったのか、その頃から性的な規制が厳しくなってきていまして……。私達は警察の世話になり、地方の孤児院に入ることになりました。母のことは何度も警察の方などに相談しましたが、形の上では、母はちゃんと契約に基づいて自ら赴いたことになっていますので、どうしようもなくて」
 久賀は一言も口を挟むことなく、娘の言葉を聞いていた。警察は当てにならない。きっと、彼女はそう判断したのだろう。そして、地方にまで飛んでしまい、自分達の力ではどうしようも出来ないことを悟った。
「探偵の方に相談したときに、噂を聞いたんです。この街で夜の間に活動する不思議な人の話を」
「探偵、ですか」
 久賀は呟きながら、どの探偵が情報を提供したのだろうかと思考を巡らせた。探偵業界から警察関係者まで、一部の人間は久賀の存在を知っている。そして、そのネットワークは久賀自身が作り上げたものだった。規律に阻まれた社会で、その外で活動する人間が必要なのである。久賀には、たびたび彼女達のような客が訪れる。
「もう私も高校生になりました。母が連れて行かれたのが五年前。何かあったとしても、それは理解できます。だけど、もし無事なら、無事だとするなら、母に会いたいんです。そして、また一緒に暮らしたい。妹はもう小学生になりました。この娘は母の顔を鮮明には覚えていないんです。だから、母に会わせてあげたい」
 娘の伏せた瞳から、涙が零れ落ちた。それは膝の上に置かれた手の甲にポツリと音を立て、そして流れていく。久賀はじっと何かを考えるように姉妹を見つめていた。まるで別の場所から相手を見ている第三者のような、冷静な視点の自分に、嫌気が差す。久賀は依頼を受諾することを決めて、姉妹に母親の名前を聞いた。
 そんなときの彼もまた、第三者の自分に見られている。

4


 母親の情報は一晩もすれば久賀の手元に届いた。彼の情報網は様々な方向に張り巡らされている。政治から福祉、そしてもちろん、夜の街にひしめく大人だけの店にも。久賀は出かける前に確認した情報を整理した。母親はとある店にいる。それ自体はすぐに分かった。問題となるのは、いかにして、母親を連れ出すかだ。店そのものが、組織的なものに支配されている。店内では監視の目もあるだろう。
 久賀は一歩も怯むことなく、店の扉を開いた。中はまるで別空間のような空気に満たされており、いきなりテレビのボリュームを上げたように笑い声や話し声が耳を打った。煌びやかに装飾された店内はいくつかのスペースに別れており、そこで客と店員が戯れる。キャバクラ……? そんな生ぬるい場所ではない。ここは、買い手と売り手の人間市場だ。店で自宅へ帰る前の余興に興じることもできれば、その場でお持ち帰りし、家で満足感を得ることも出来る。もちろん、日本はまだ安全だ。奴隷と呼ばれる存在は名目上消え去り、そしてこんな市場においても、売買の関係ではない。あくまで、借りる、ということだ。女は事を終えると店に戻っていく。発展した社会においてそれは、奴隷よりもつらいことなのかもしれないが。
「いらっしゃいませ、初めてですか?」
 仮面のような笑みを浮かべた女性が、近付いてきた。
「ええ、初めてです。この人、指名できますか?」
 久賀は壁にかけられた写真の中から、一人の女性――姉妹の母親を指名した。高校生の娘がいるとは思えないほどに麗しい女の写真だった。何の迷いもないままに写真を指名した久賀を見て、一瞬だけ女性は訝しんだ。しかし、それもすぐに終わる。
「できますよ。よかったですね、お客さん、この人は人気があるんで、空いてることって珍しいんですよ」
 なるほど、だから訝しむことをやめたのか。久賀は納得した。
 すぐに久賀はスペースへと案内された。スペース内はベッドと椅子、テーブルがあり、備え付けの用具などが置かれているだけで、特に豪華な造りではなかった。椅子に座って待っていると、しばらくして女性がやってきた。
「はじめまして、リコと言います」
 女性は会釈してどことなく凛とした笑みを浮かべた。写真よりも、もっと若く見える笑みだった。
「安藤由美さん、ですよね」
 まるで金縛りにあったように、由美の動きがぎくりと止まった。彼女はゆっくりと久賀の顔を見つめた。汗ばんだ額と腕が、彼女の緊張を物語る。久賀は思った。間違いない、彼女は安藤由美だ。そして――この店を管理する新座組・組長の、愛人だ。

5


 久賀が彼女を連れ出すこと自体は、簡単なことだった。親分の愛人ともなれば、店での地位は不動のものである。一声かけて外に出るなど、容易いことだ。彼女は露出の高い服を着ていた。まるで黄金に身を包んだようなドレス調の服は、胸元が開いて挑発的である。
 二人は歩いた。店の近くの路地裏まで無言で歩いた。言葉を交わすことは一切なかった。そして、街の喧騒から外れたところで、由美は口を開いた。
「それで、あなたは誰? 本名を知ってる人なんて、いまは新座組以外にいないと思ってたけど」
「名前は言えない。だが、これを見せれば分かるはずだ」
 久賀は二枚の写真を突き出した。由美はそれを見て少しの間考えこみ、ようやく記憶の糸を掴んだ。
「真由……?」
「それと、妹の真耶」
 由美は呆然と写真を見下ろしていた。まるで時間を遡ったような感覚だった。娘達の顔を意識する。ぼんやりと、それでも彼女達の深層は鮮明と、由美の心に映し出される。
「二人に依頼された。母親を助け出してくれ、とな」
「……そう。二人が」
 由美はじっと写真を見ている。やがて、その瞳から涙が流れた。まるで雨の後の雫のようなそれは、そっと頬を伝っていく。彼女はそれを拭って、久賀に向かって微笑んだ。店で見た笑みとは違う、母の顔だった。久賀は思った。彼女の笑みは優しい。人間の笑みは、それだけで人を表す。彼女は呑まれていない。今はまだ、助ける価値がある。もちろん、彼女自身ではなく、母としての価値も。
「それで、あなたは裏の世界の何でも屋かなにか? 日本にそんなのがいるなんて思ってなかったけど」
「正確には違うが、まあ、相違ない」
 由美は涙を拭い終えて、写真を突き出したが、久賀はそれを拒んだ。顔で、懐に収めるように促す。娘の写真を母が持つのは当たり前のことだ。彼女は懐に写真を入れてから、真剣な表情を浮かべた。久賀はそれに、組の愛人としての彼女を垣間見た。
「それで、どうするつもり?」
「問題がなければ、今晩中にこの街から出るつもりだ」
「会えるの?」
「もちろん」
 由美は写真を抱くようにして感慨深いものを感じていた。ああ、娘が近くにいる。あの時、もう会えないと自分の心中を吹っ切った娘が、近くにきている。
「行くぞ」
 安堵の表情を浮かべる由美を、久賀が促した。彼女は頷いて彼とともに路地裏から出ようと――思った瞬間、久賀が彼女を半ば強引に背後に回した。彼の目は驚愕に見開き、遠くを見ている。まさか……!? 久賀は由美とともにしゃがみ込んだ。途端、空気を切り裂く音が聞こえたかと思うと、背後のコンクリートで出来た地面で、何かが弾けた。
 弾だ……!
 久賀は即座に判断し、由美を壁際に押しのけた。彼女は何が起きたのか正確に把握できていなかったが、それが緊急事態であることは感じ取っていた。久賀はすぐに銃弾の軌道を追った。どこだ? 軌道の種類からは狙撃銃を使っている。敵は遠い。思考の間にも、発砲は続いた。狙撃中の連射能力ではずば抜けて高い。加えて――精度はそれに比例している。由美を狙った銃弾は、かろうじて頬を裂くようにかすんで、壁に弾かれた。次は確実に撃ち抜かれる。久賀は由美を連れて駆け出した。路地裏から逃げなければ。久賀は焦っていた。情況を多くの角度から感じ取る自分の感覚が、僅かな未来を見せてくる。
 そして――由美は撃ち抜かれた。
 鮮血が飛び散り、久賀の頬にも生温かい血が付着した。頭部を貫通した銃弾は地面に弾かれる。由美が倒れ込むのと同時に、銃弾は壁にぶつかってコンクリートに転がった。地面に血が溢れ出て、排水溝に流れていく。久賀は呆然とした様子で由美を抱え上げた。
 彼女は痙攣しながら口を開くが、それが言葉を紡ぐことはなかった。懐からこぼれそうになっている写真を掴み、娘達の顔を見る。震える手が次第に静かになっていくのが、妙に痛々しい。由美の目には姉妹の顔が見えていた。視界はうすぼんやりとした霞みがかかり、何も見えない。それでも、彼女の目には見えている。娘達が出迎えている。由美は二人を抱きしめた。
 久賀の胸元で、彼女は写真を抱きしめた。震えが収まっていき、そして静かに彼女は息を引き取った。その顔は死への恐怖を本能的に感じていたが、どこか幸せそうであった。
 久賀はそっと彼女の瞼を下ろした。そして、次は、彼女の顔面を流れる血を、ジャケットで拭う。相変わらず、若い顔だった。
 幸せなわけがないだろう。久賀は意識した。怒気が湧き上がってくる。平行して、第三者の彼は銃弾の軌道を計算している。
 久賀は由美を地面に寝かせ、銃弾を拾って立ち上がった。遺体の後始末は警察の仕事だ。彼は遠くで人を見下すようなブルータワーを睨んだ。まだそこにいる。少なくとも、敵が俺を見くびっているなら、そこにいる。
 久賀は全力で駆け出した。

6


 走っている間、久賀は銃弾の大きさを指先で確認した。5ミリはあるな。彼はすぐさまそれだけは理解する。そして、銃弾の形を正確になぞっていった。レミントン社の弾丸だ。となると、あの射撃速度は直動式ゆえか。久賀は腰の拳銃に手を添えた。
 ブルータワーの下までやってくると、余計にその大きさに圧巻される。ネオン管は明かりを放つものの、玄関口には立ち入り禁止の札とチェーンが扉を塞いでおり来る者を拒んでいる。久賀は迷うことなく扉の網に足を引っ掛け、それを飛び越した。ついに彼は誰も人の目につかなくなったところで拳銃を構える。愛用の拳銃には既にサイレンサーが取り付けられたままだ。また、久賀はホルスターの横から携帯型の懐中電灯を取り出した。ブルータワーの中は薄暗かった。星の光が僅かに照るばかりで、視界は決して良くない。懐中電灯のスイッチを入れて、それをもとに道を辿った。
 左の手に懐中電灯。その腕にに右腕を乗せて拳銃を視界の端に置く。久賀は侵入を開始した。扉の鍵が既に破壊されている。彼は確信した。誰かが侵入している。
 ホールにはエレベーターもエスカレーターも完備されていたが、作動はされていなかった。階段を見つけて、駆け上る。違和感を感じた。まるで何も聞こえない。久賀ははたと止まって意識した。集中力が増していくが、それでもタワーの中からは何も聞こえなかった。久賀は逸る気持ちを抑えた。そして、展望台まであと一階分ときたところで、彼は撃鉄の音を感じ取った。
 すぐさま後退する。次いで、発砲の激しい音が鳴り響き、先刻まで自分が存在した空間を弾丸が破った。久賀は再び前進し、敵へ向けて照準を合わせた。互いの発砲が起こる。久賀は弾を避けたが、敵も同様だった。相手は背を向けて逃げ去った。その背には狙撃銃が背負い、髪は日本人の色をしていなかった。敵は外人だ。そしてあいつが安藤由美を殺した。
 久賀は敵を追った。敵は外壁を伝う螺旋状の階段を駆け上っていた。吹きぬけた階段に出ると、風が激しく吹きすさぶ。しかも、高さは周囲のビルを見渡せるほどに高い。久賀は展望台まで続くその階段を疾走した。時々、上空から発砲を繰り返された。だが、久賀は決して止まることなく追いかける。動きがあるものへ狙いを定めるのは難しい。まして、螺旋階段の上から狙うなど、そうそう当たるものではない。
 展望台までたどり着こう――というとき、久賀は扉の前で足を止めた。
 そして、扉を盾にするようにして中へと入っていく。妙に静かだった。懐中電灯が照らす明かりに、相手の姿は見えない。だが、必ずどこかにいる。こちらは不利だ。久賀はそれを努めて意識した。相手は自分の姿を教えないためにいまは息を潜めている。だが、こちらの場所ははっきりと分かっているはずだ。扉から差す薄明かりを背後にした久賀を、敵ははっきりと視覚している。
 足音が響いた。自分のものだ。敵ではない。展望台の壁はいやに反響した。久賀の首を汗が伝った。一歩ずつ、彼は薄明かりから遠ざかった。そして懐中電灯の明かりを消せば、あとは感覚同士の戦いだ。
 あと一歩で薄明かりから身を消せる――と思った途端、冷たい物体が頭部に押し当てられた。
「finish. 訳してやろうか? 終わりって事さ」
「……ああ、そのぐらいなら分かる」
 白人の男は久賀の行動を読んでいた。逃げたら撃つとばかりに、銃口を突きつけている。
 なるほど、鴨か。無理に立ち向かう必要もなかったわけだな。
「日本語が上手いな」
「ああ、何度かこっちで生活したことがあるからな。それに、日本の女は悪くない」
 男は下卑た笑みを浮かべた。
「新座組か?」
「もちろん。とはいえ、俺は雇われているだけだがな」
「どうして安藤由美を殺した?」
「おいおい、普通、質問はこれぐらいで終わりだろ? そんな突っ込んだところまで聞くか?」
「どうせ死ぬんだ。教えてくれたっていいじゃないか」
 久賀は自嘲気味に笑った。
「ま、確かにそうだが、死ぬ気がない奴に教えてもしょうがない。ほら、靴に仕込んでるナイフを外せ」
 久賀は驚きを隠せなかった。まさか見抜かれていたとは、という彼の表情に、男が小馬鹿にした顔をする。
「情報を聞きだした後でそいつを胸に、とやられても、意味がないんでな。ホルスターからナイフまで外した後にだったら、本当の意味で冥土の土産に話してやるよ」
 久賀はもはや何も言うことはないとばかりに、無言でホルスターとナイフを外した。ナイフは踵を強く叩くことで飛び出してくる殺し屋御用達のものだった。鋭利な刃物は手入れがよく行き届いており、それを確認した男は思わず口笛を吹いた。
「これなら一突きで心臓までいくな。さて……、安藤を殺した理由だったか」
「……ああ」
 白人と男は少しだけ陰りを持った。久賀は男の表情を横目で見ながら、彼もまた第三者の目を持っているのだろうと感じた。
「身近にいる人間てのは、何かと情報を耳にしてるもんさ。分かるだろ? 組長に気に入られたってのは、ある意味で鎖をつけられたってことだよ。難しいよな、生きていくってのは」
「監視がいるだろうとは思っていた。だが、まさかそれが貴様のような奴とは予想外だ」
「それはこっちの台詞だよ。お前、誰だ? 訓練されてるな?」
 久賀はくすりと笑みをこぼした。
「ああ、昔はKGBにいた。そこでそれなりに訓練はやったさ」
「ソ連……!?」
 男の瞳は驚愕に見開いた。情況に乱れが生じる。男の握る拳銃がわずかに震えた。久賀は理解した。隙だ――! 彼は右腕をすばやく胸で叩いた。すると、肘から靴に仕込んでいたものと同じ型のナイフが突き出てくる。それは自身のジャケットを破り、そしてさくりと音も立てずに男の胸に突き刺さった。
 男は引き金を引こうとしたが、久賀に拳銃を奪われた。もはや、彼に守るべき術はない。
「……KGBか。そりゃあ、こんな結末になるわけだ」
 彼は吐血しながら喋り続けた。足腰の力が次第に失われていき、床に腰を降ろして壁にもたれかかる。まるで、休憩を取ろうかと言うように。
「どこの所属だ?」
「元、SAS……。と言っても、一年余りで、脱退したが、な」
「さすが英国特殊部隊だな。狙撃の腕は確かだった」
「ありがと、よ」
 吐血が激しくなり、男は咳き込んだ。呼吸することさえままならず、肺が悲鳴を上げていた。そして、生命さえも。
「なあ、一つ、聞いて、いいか? なんで、KGBからこの、日本に……?」
「親父がいたからさ。……俺が殺した」
 男は笑った。息を引き取るのも時間の問題だった。痙攣していく身体が陸に上がった魚のように激しく波打ち、そして、微笑みながら最後の吐血を終えて、彼の命は途切れた。久賀はその笑みの意味が分かっていた。抜け出せないんだな。白人はそう言ったのだ。
 久賀は男の足もとからホルスターとナイフを取り戻して、展望台を後にした。螺旋状の階段を降りる最中、彼の気持ちは晴れなかった。いつかそれが晴れる日がくるのだろうか。今の彼には分からぬ。

7


 翌日の夢乃屋に、姉妹が来店した。妹は相変わらず落ち着かない様子で、店内を見回していた。久賀はテーブルに二人を座らせてコーヒーを差し出した。もちろん、姉だけだ。妹にはジュースをすでに差し出していた。久賀は二人の対面に座った。どう話を切り出そうかと思っていたが、先に姉が口を開いた。
「今朝、ニュースを見ました」
 彼女は今にも泣き出しそうであった。それでも、懸命にそれを堪えている。
「申し訳ありません」
 久賀は頭を伏せた。それ以外に、彼女達に出来ることが思いつかなかった。仕事は失敗した。いや、むしろ、自分は最悪の結果を作ってしまったのかもしれない。そう思えば思うほどに、久賀は自分がやるせなかった。
「いえ、そんな、気になさらないでください。頼んだのは私達です。それに、久賀さんは精一杯やってくれたんだと思っています。だって、あのブルータワーの死体は……」
「私は、由美さんを守れませんでした。せめてもの報復だけしか出来なかった」
 久賀は歯を食いしばった。感情的になっていた。姉妹を見るほどに、自分に腹が立ってしょうがない。第三者の自分は消えていた。苛立ちが募り、そして久賀は自分を叱咤する。所詮、お前には何が出来る? 何も出来やしなかった。自己満足か。もしくは、自信過剰だったのか。俺は、失敗した。
「あの」
「……はい、なんでしょう?」
「母の最後はどんな様子でしたか?」
 姉がじっと久賀の目を見つめてきた。久賀は昨日を意識する。由美が最後に見せた表情を、鮮明に思い出せる。彼女は麗しかった。そして、優しい笑みを持った母だった。
「写真を、抱いていました。お二人の写真です。でも私には、彼女がお二人自身を抱いているようにも、思えました」
 久賀は確かに伝えた。少なくとも、そこに嘘偽りはない。彼自身の心にも。
「それだけを聞ければ、満足です。ありがとうございました」
 姉は会釈した顔を上げて、母のような優しい笑みを浮かべた。久賀は、それに救われたような気持ちだった。
「それでは、そろそろおいとまします」
 二人はもう地方に戻らなくてはいけなかった。姉は妹を促して、店先まで出て行く。久賀はそれに連れ立って、二人を見送ろうとした。
「本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます」
「おじちゃん……、バイバイ」
 久賀は初めて妹の声を聞いた。彼女は久賀を見上げながら、やはり母のような笑みを浮かべるのだった。
「ええ、さようなら」
 久賀もまた、自分に出来る精一杯の笑みを浮かべて、二人に別れを告げた。その姿が遠くかすむまで二人の姿を見送って、彼はようやく自分と向き合った。あんなに愛し合える親子がいるなら、それを羨ましく思う。そして自分には、それを守る力があるのだと。殺すことは簡単だ。遥かに楽で、そして自分はそんな仕事も請け負っている。だが時には、守ることも必要で、そして、救われるときもある。そんなことも、時にはある。
 久賀は気持ちを切り替えた。沈んでいるばかりでは始まらない。店はもう開店の時間だ。そして、夜はまた容赦なくやってくる。
 彼は「CLOSE」の札を「OPEN」へと裏返した。