コーヒーを紙コップに注いで

 若者は気になっていた。
「…………」
 想像していたよりも、少女は小柄で華奢な体をしていた。身の丈は若者の頭一つ分は低いだろうか。遠目からは分からなかったが、近づくにつれてその背の低さは一目瞭然だった。
「…………あ」
「え…………」
 若者の唐突な声と水面が弾かれる音、そして少女の呆然とした声が漏れるのはほぼ同時だった。湖の上をすいすい泳いでいた白鳥が、突然餌でも見つけたのか、思い立ったように水面から飛び立ったせいだった。
 若者は失敗したと、自分の失態を後悔していた。
「…………」
 声に気づいた彼女が、振り返ったままじっとこちらを見つめてきていた。その顔は、端から見ても分かるほどに不審げに歪んでいる。ただ、そんな彼女の引き込まれるような吊りあがった黒曜石の瞳は、それでもなお綺麗だと思えた。
「えっと……その……な、なにしてた、んですか?」
「…………」
 もちろん、答えるはずもなかった。
 不穏の色を湛える瞳は、まるで鳥でも観察するかのようじっと若者を見据えていた。ひょろっとした印象を受ける、小枝のような男だ。とうてい、力強さとは皆無の場所で生きているはずである。服のセンスは上々といったところか。決して、悪くはない。ただ……終始放つオーラにも似たものが、『ダサイ』という言葉を女性の心に抱かせるのは、残念としか言いようがなかった。
 若者もそんな自分のことはとうに自己分析済みなのか、諦めたようにその場を立ち去ろうとするが、
「…………鳥、見てたの」
「へ? と、とり……?」
「そう、さっきの鳥。でも、飛んでっちゃった」
 表情は一切変えず、淡々と事実を告げるように少女は答えた。声をかけたのは若者であるが、返事があったのは意外だったのだろう。鳩が豆鉄砲でも喰らったかのような顔で、間の抜けたキャッチボールしかできなかった。
「ねえ、それ、なに?」
「あ、えーと……コ、コーヒー」
 手に持っていた二つの紙カップを掲げてみせて、若者はなんとか場を保とうと愛想笑いを浮かべた。がちがちに固まった頬肉で作ったぎこちない笑みに、少女は案山子でも相手にしているかのような冷めた目を向けるだけだった。
「そ、その……飲みます?」
 こくり、と少しだけ心を許した親しげな目で少女は頷いた。
 そっと渡されたコーヒーの紙カップを両手で持って、その温かさをじんわりと噛み締める。季節は冬だ。繋服の下は何枚かの衣服を重ねており、若者もまた、温かそうな緑のジャンバーを着込んでいた。
 どうして、こうしていま、二人でいるのだろう?
 枝のような若者は、小柄な背中を見ていたときには想像もしていなかった展開に半ば思考が上手く回らなかった。会話の糸口を探すも見つけることはできず、二人で並んでじっと宙と水面とに視線を動かしてだんまりを決めこむ。コーヒーを持ってきたことは、正解だった。こうしていれば、時間が過ぎるのを少しは違和感なく傍観していられる。
「……さっむいねー」
 白い息を噛み締めていたとき、ツリ目の少女は弾くように声を張った。
「そ、そうですね」
 そもそも弱気な若者は強い口調に慣れておらず、そんな当たり障りのない言葉しか口にできなかった。幸いなのは、そんなことしったことないとばかりに少女がつけはなしたような口調を続けたことだ。
「ねえ、あんた何年?」
「二回生……法学科」
「なんだ、いっしょじゃん……タメ口でいいよ」
 ときどき唇から白い息を吐き出しながら、少女は面白くもなさそうに会話を続けた。
 なんでも、つい最近、彼氏と別れたらしい。やれそのときの彼氏はこんなときこうしてくれなかっただ、人の気持ちを考えろだ、挙句には最近の日本男児事情にまで苦言を呈する始末である。ゴミでも捨てるかのよう出るわ出るわの文句の数々であった。気持ちをそのまま吐き捨てる彼女は若者の知らない事情をどんどん持ち出す――不思議と、それが嫌な気持ちはしなかった。むしろ、その会話は楽しいとさえ思えた。
 いつの間にか、コーヒーはすでに半分以上飲み進んでいた。それほど、時間は夢中になっている間に通り過ぎていたのだ。
「……んで、名前は?」
「へ?」
「へ? じゃなくて、名前。あんたの名前。なんて呼んだらいいかわかんないじゃん」
 怒っているようなキツい口調で質問してくる少女は、鋭い目で若者を覗き込むように見てきた。嘘も偽りもなさそうな黒曜石の瞳がじっと自分の心を見ているようで、直視に羞恥が耐え切れなくなった若者は顔ごと視線を逸らした。
 とは言え、返事を返さないつもりはない。詰め寄るようにして見つめ続ける少女に自分の名前を伝えようとする――
「あっ!?」
 視線から逃れようと慌てたせいだろう。若者の手からコーヒーが零れ落ちた。時間が経ってぬるくなっていたのは幸いだったが、シャツには染みが一気に広がる。
「ったくもう、なにやってるのよ」
 思わぬ出来事にあたふたとする若者へと歩み寄って、少女は自分のハンカチで染みを拭ってやった。
「ちょ、ちょ……!?」
「いいから、じっとしてなさい」
 それで染みが消えるわけではなかったが、ひとまず水気は拭き取ることができる。パンパンと手馴れた様子で叩くよう拭いて、少女がようやく離れようとした。
「あ……」
 突風が襲った。
 冬の強風である。冷たい風が二人を叩くように吹き、少女の手からハンカチを奪い去っていった。ハンカチは、湖の横の木橋へと落ちる。
 少女に告げることもなく、思わず若者はそれを追った。自分の不手際の後始末をしていたからこそ起こった事態である。取りに行くのは当然であるが、そうでなくとも、わざわざ少女に取りに行かせるような手間をかけさせたくはなかった。
「……あった」
 そう長く探すこともなく、風に飛ばされただけのハンカチはすぐに見つかった。
 それを拾い上げて、元にいた場所へと戻ってくると、そこに少女の姿はなく――最前、小柄な背中を紙コップ二つを両手に見つめていた場所から声が降りかかった。
「ねえ」
 はっと顔を上げると、悪戯めいた笑みの丸顔が見下ろしていた。
「それ、持っといてよ。また会ったときに返してくれてばいいからさ。じゃ、あたしこれから講義なんだ。じゃね」
 片手をさっと振って、小柄な背中が大学に備えられた英国式庭園から去っていった。
 狐か狸かにでも化かされただろうか。そんな馬鹿らしい想像を巡らせながら、呆気にとられた顔で少女の後を見つめ、やがてハンカチへと目を下ろした。
「……洗濯しろってことかな」
 白と黒のチェック模様のハンカチは、細かな草のはぎれや吸い取ったコーヒーの染みで汚れていた。