ブラウンシュガーパウダー

 有栖(ありす)は学校に向かう途中、歩道橋の上ではたと止まった。
 そして眺めた街は、ブラウン一色。
 『あなたの心に届けたい』とか書いてあるいかにも甘々なPOPが目に入る。たくさんの店で、濃厚なチョコレートたちが一斉に並んでいた。ハートや、一口大のボール状になっているそのチョコレートたちを見て、有栖はあからさまなため息をついた。
(はあ……どうしてみんな、こんなくだらないイベントに真剣になれるんだろう)
 それは有栖にとって、人生の哲学ともいうべき難題だった。
 あらかじめ言っておくと、別に有栖は自分がチョコをあげられるほどの容姿を持っていないとか、単なるひがみでそんなことを思っているわけではなかった。
 むしろ彼女は、バレンタインデーにはなにかと注目されるほうである。父親がイギリス人、母親が日本人というハーフの出生からか、彼女の見た目はひいき目に見ても恵まれている。スッと通った目鼻立ちに、少しきつそうだが、見る者を魅了する力強さのある大きめの瞳。なにより、たおやかになびく髪が、すれ違う者を思わず振り返らせるのだった。
 鮮やかな金髪。それも太陽の光に照らされると、水晶のごとき輝きを生む少しのくすみもない金糸の髪だ。そんな金髪を持った美少女が街を歩けば、振り返らないほうが無理という話だった。
 ただまあ、それが本人にとって幸せかどうかはまた別の話で。
(こんな金髪、欲しくて生まれてきたわけじゃないわ)
 過ぎ去る雑踏が背中越しに自分を見てくる気配を感じながら、有栖は心の中で毒づいた。
 と――鼻先に何か冷たいものが落ちてきた。
「あ、雪……」
 思わず空を見上げると、シンシンと降り注ぐ白い雪たち。
 有栖は、雪たちと同じ白いマフラーを巻いていたが、それを改めて巻き直した。制服の紺色の上にひらりと落ちる雪は、すぐに溶けて消えてしまう。
(きれい……)
 手のひらで雪を受け止め、もてあそびながら、有栖は思わず笑みをこぼした。が、すぐにその顔が、右手の腕時計を見てぎょっとなる。
「ヤバッ……遅刻……っ」
 彼女はあわてて走り出した。
 踏み出した足がシャリッと音を立てたのは、地面に落ちた雪が水に変り始めていたからだった。

 その日は、クラスの話題もバレンタインの話で持ちきりだった。机に突っ伏す有栖は、そんな雰囲気を横目に、早く時間が過ぎればいいのにと思っていた。
 誰それが誰にチョコをあげたとか。誰が一番人気だとか。実は今日は本命持ってきたんだとか。そんなことはどうだっていい。
 ――ナンセンスだ。とっても。
「有栖さん」
「うんー?」
 ふと聞こえてきた誰かの呼びかけに、今にも溶けそうな声で答えて、有栖は顔だけをそちらに向けた。
 机に突っ伏していた有栖に声をかけてきたのは、柔和な笑みと細い目が印象的な女の子だった。
 彼女は、あまり社交的ではない有栖の数少ない友達で、椎崎奈織(しいざき なおり)といった。高校生のくせに、まるで大学生のお姉さんのような淡い笑みを浮かべる、どこか大人びたクラスメイトだった。
 そんな奈織が、有栖に予想していた質問をしてくる。
「有栖さんは、バレンタインデーチョコ……誰かにあげないんですか?」
「……あのねぇ、奈織。あんた知ってるでしょう? あたしがこういうイベント事ってのが嫌いなこと。だいたいなによバレンタインデーって。チョコをあげて思いを伝えましょう? どうせ今はほとんど習慣的な義理チョコだらけになってるってのに、ナンセンスよ」
「有栖さん、バレンタインデーに恨みとかありましたっけ?」
「そんなものはない。微塵もない」
「……でも……なんだかいつもよりお怒りがすごいみたいですよ?」
 まるで子どもに言い聞かせるような声音で、奈織は首を傾げながら言った。ついつい、有栖は反論できずに声を詰まらせる。
(別に…………恨みとかじゃないんだけどさ)
 自分に言い訳をするようにそう言いながら、彼女は幼いときのことを思い出しそうになった。が、そのとき、廊下から一人の男子生徒の叫び声が聞こえてくる。
「うおおおおぉぉぉい、有栖うううぅぅ!」
 そいつはドドドドと廊下を走ってくると、有栖のクラスに何の遠慮もなく飛び込んできた。目標は決まってる。有栖ただ一人だ。
 彼は有栖の前にやってくると、両手を広げてはしゃぎ回った。
「有栖ぅっ! 今日はバレンタインデーだ! バレンタインデーだぞ!」
「やかましい! それぐらい分かってるわ!」
 男子生徒の名前は香坂昭人(こうさか あきと)。有栖にとっては幼稚園の時からの幼なじみである。
 丸顔に沿って伸びた黒髪のショートヘア。キラキラと期待を込めて輝く瞳。少々バカっぽいが、見た目は普通の地味な男子生徒だ。だが、これが有栖にとっては実に厄介な存在で、中学生の頃から、毎年バレンタインデーのたびに、彼の愚行にほとほと困り果てているのだった。
「バレンタインデーということは、もちろん用意してるんだろ!」
「なにを期待してるんだか……」
「だからチョコをっ! 俺にチョコを! 今年こそチョコをおおおぉぉ!」
「だあああぁぁ、うるさい! チョコが欲しけりゃ、校門の前で物乞いでもしてろこのバカ!」
 他人の話を聞かず、胸に向かって飛び込んできた変質者顔の昭人を、有栖は右ナックルで一撃粉砕した。ガシャンッ! と窓を割って、昭人は落ちていく。ひゅるるるぅぅという音がしばらく聞こえたと思ったら、ガンッ! という不気味な音が鳴った。
「有栖さん……あの……ここ、4階ですけど」
「大丈夫よ。死にゃーしないわ」
 昭人の顔をぶん殴った右手の拳を労りつつ、有栖はこともなげに言う。
 その後、「うおっ、誰だそこで死んでる奴はっ!」という、見回りをしていた体育教諭の声が聞こえたのは、次の授業が始まってから十分後のことだった。
 幼い少女を、同じ年頃の子どもたちが囲んでいた。
「やーい、キンキラキンあたまー」
「うわっ、こいつの髪光ってやんのー!」
 口々にそんなことを言って、子どもたちは少女の頭を引っ張ったり、持っていた木の棒でつついたりしていた。どうしてこんなことをするのか、少女にはわからない。
 少女に出来るのは泣くことだけで、やめてよー……どうしてこんなことするのー、と必死に訴える彼女を、子どもたちは愉快げに笑った。
「どうしてって決まってるじゃんっ。おまえ不良なんだろー」
「髪をマッキンキンに染めてる奴は不良だって、母ちゃん言ってたぞ」
「こ、これ、別に染めてるんじゃないよ……最初から金色なんだよ」
「嘘つけー! みんな黒いんだぞー! なんでおまえだけキンキラなんだよー!」
「そ、それは……」
 そのときの少女には、自分がハーフだとか、お父さんが外国人だからだとか、そんなことを説明できるだけの語彙と要領は持ち得ていなかった。だから、ぐずって泣き崩れるだけしか出来ない。そしてそんな少女を見て、子どもたちはさらに面白がって彼女をいじり続けるのだ。
 そんなとき、
「おまらあぁっ! やめろぉ!」
 怒りを露わにした叫びが、聞こえてきた。
 少女と子どもたちが振り返った先にいたのは、仁王立ちでギンと子どもたちを睨みつけている少年。
「あ、あきちゃん……」
 少女が彼のあだ名を口にすると同時に、少年は子どもたちに向かって全力で突進してきた。
「アリスを……いじめるなああぁぁぁ!!」
 それはまるで――姫を救いにきた王子様のようだった。
 授業が終わって放課後――有栖が校門を出ようとすると、鼻先に大きな絆創膏を貼った秋人が、壁にもたれかかって彼女を待っていた。
「…………帰る?」
「ん……」
 すねた子どものように黙り込んでいた秋人を促して、有栖は二人で下校することにした。
 雪が積もっている。そして今でも、空からはその白い結晶たちがシンシンと降り注いでいる。これでもピークの時に比べれば少しは減ったほうだが、まだまだ寒さは続きそうだった。
「あのさ……」
「なに?」
「いや…………なんでも……ない」
 口を開きかけた秋人は、振り向いた有栖の顔を見て、やっぱり止めたといったように頭を振った。
 そうして会話がないまましばらく歩き続けて、気づけば自分たちの住んでいる住宅地。二人の家は二件挟んでほとんど隣同士だ。先に着いたのは、有栖の家の玄関先だった。
「それじゃ」
 軽い笑みで別れを告げてから家に上がろうとする有栖。
「あ、あのさ……」
 しかしそれを、秋人の少しドギマギとした、だけどはっきりと主張する声が遮った。なに? といったように首を傾げた有栖に、秋人は、今度は真剣な声音でしっかりと懇願した。
「チョ、チョコ……くれないかっ」
「はい?」
「いや、だからチョコ……その、もらえないかって」
 怪訝そうに眉を寄せた有栖に、秋人はたじろぎつつ再び告げた。
 彼の表情を見つめながら、そこに、学校で頼み込んできたときのようなふざけた雰囲気がないのを見て取って、有栖は深いため息をついた。
「……あのねぇ……アンタ、どうしてあたしがチョコをあげないのか、ぜんぜん知らないの?」
「し、知ってるって……っ」
「じゃあ、どういうことよ?」
「その……オレが、最初にその、受け取らなかったからだろ」
 秋人は言いづらそうにしながら、なんとか答えを口にする。
 それがよけいに神経を逆なでして、有栖の眉をつり上げさせた。
「そういうこと。知ってるなら、よくそんなことが言えたわね。アンタはチョコとかそういうのには興味ないんでしょ? だったら別にもらわなくても良いじゃない」
「それは……っ。しょ、小学生のときの話だろうが。あのときはなんていうかその、ちょっと恥ずかしくて……まわりの視線もあったしさ」
 子どもの頃は、ずっと自分を守ってくれる世界一恰好いい王子様だったはずなのに。
 いつ頃からか、少しずつ避けるようになっていった秋人。バレンタインデーのチョコも、小学生の時は一度も受け取ってくれなかった。
 有栖はジロリと彼を見た。
「金髪ハーフのあたしがあげるチョコは、恥ずかしかったってわけですか。黒髪のしたしげーなお友達のチョコはもらってたのにねー」
「み、見てたのかよ……」
 あからさまに非難する有栖の視線を正面から受けて、秋人は居心地悪そうに一歩下がった。
 見てたなら言えよ。ということを視線だけで訴えてみるが、もちろんそれは有栖の憮然とした顔つきに弾き返されてしまう。反論は許されないようだった。
 ただもちろん、秋人だってべつに、彼女と口論したくてこうしていま、向き合っているわけじゃないのだ。
 彼はガシガシと自分の頭をひっかいた。
「その、あのときは、ほんとにゴメン。別に欲しくなかったとか、本当に受け取りたくなかったとか、そういうじゃないんだ。ただ、あのときはみんなから、金髪っ娘と遊ぶのかーってからかわれてたから……」
「それでムキになって、いらないって? …………バッカじゃないの」
「うん。俺も……そう思う」
 過去の自分を恥じて、秋人は申し訳なさそうに言った。
「だから高校に入って、あんなバカっぽいまねとかしてから、もらおうとしてたっていうの? それこそ、最悪じゃない」
「いや、だからさっ。こうして改めて頼んでるんだって!」
 秋人は両手を振ってそう言った。そして、小さな声で付け加える。
「俺、おまえのチョコが……欲しいからさ」
 有栖は、嬉しさとめんどくささが混ざったような、何とも言えない複雑な顔になった。それを拒んでいるのだと感じ取ったか、秋人は有栖から距離を取り、鞄を肩に担ぎ直した。そして別れ際に言う。
「もしくれるなら、また来年でもいいんだ。待ってるから。だから、来年は良かったら――」
「ん」
 そこに突き出された有栖の手。
「へ?」
 その手には、可愛らしくラッピングされた一つの箱があった。
「これって……」
「学校に行く途中で買ったのよ」
「え、じゃあ……」
 ぱあぁ、と顔を明るくする秋人。
「しょうがないでしょ。いつもの習慣――」
「いやったあああぁぁぁ!」
 有栖の話を最後まで聞かず、秋人は喜びに打ち震えて叫んだ。受け取ったチョコをその手に握りしめて、空に飛び上がる勢いである。
 そんな彼に呆れて、ひとつ息をこぼす有栖。まったく、現金なものだ。
(最初からそうやって素直に受け取ってくれれば、毎年チョコを無駄にしないで済んだのよ)
 いつも、代わりに父親にあげていたチョコを、思い出す。今回は父の分もまた後で買ってこないといけなくなりそうだ。
「やったっ! やった!」
 いまだに飛び跳ねて喜んでいる秋人。そんな彼に向けて、有栖はこう言った。
「ねえ、秋人」
「やっ――――なに……?」
「ホワイトデーのお返しは、5年分だからね」
 不敵に笑った彼女の笑顔は、いたずらな魔女が仕掛けるそれと一緒だ。秋人はしてやられたといったように苦笑して、頬をかいた。
「……ん、了解っ」
 雪は舞い散る。ブラウンの街に降り注ぐそれは、チョコの上にそっとかけられたパウダーシュガーのように、二人を甘く包み込んでくれた。