自転車競争

 体力坂――いつ頃からの話であろうか。そう呼ばれてきた坂があった。
「は……ふ……うんぬぁ……はぁっ」
 そんな坂を、平日の朝から今日も今日とて登校という強制労働の名のもとに登ってゆくのは、体育会系クラブに所属しているわけでもない、しがない男子高校生だった。ママチャリのペダルを必死に踏みこんで、立ちこぎの姿勢のまま食らいつくように漕いでいた。
 素晴らしき人間への道は、健全なる肉体と精神に生まれる。そんな校長の持論のもとに山を開拓して建てられた深山高校は、この体力坂を通じてでしか登校できない仕組みになっている。
 もちろん、昔の体育会系ノリであるならまだしも、ゆとりという汚染物質に感染した現代社会において、そんなシステムが長続きするわけでもなく……今では坂の下から登下校用の無料バスが巡回しているにおさまっている。
「ち……くしょ……はぁ、はぁ」
 そんな体力坂にあって、一人の男子生徒――馬事(ばじ そうすけ)はなぜこうも必死に自転車を漕ぐのか。その理由はただ一つ……『自転車がもったいない』からだった。
 高校生活を前に買ってもらった新しい自転車。登下校バスが出ていると知ったのはそのあとだ。しかし、いまさら自転車は登下校で使わなくなりましたというのは、彼の唯一の個性でもある節約思考に反する行為だった。
 で、あるからして――ただいま入学一ヶ月目。目下、体力坂を自力で登る登下校生活を続けているのであった。
「はぁ、はぁ……き、つ……」
 前方にようやく正門が見えてきた頃、壮介はぶるぶると震える足を鞭打ち、なんとか正門まで持ちこたえようとした。
 軽快な音が聞こえてきたのは、そのときだった。
 ……シャアアアアァァァ。
 まるで滝の流れる音のように滑らかなチェーン音が、背後から近付いてきた。視界を過ぎ去ったのは、自転車だった。ほとんど力を入れていないであろう優雅な漕ぎ方で、自転車は壮介を抜いて正門へとあっさりたどり着いた。
 その中心部に搭載されているのは、電動機。ペダルを漕ぐ力を補助する、現代文明の利器であった。
 想像もしていなかった光景に、壮介は漕ぐ力を完全に失い、唖然と立ちつくす。しかも、何より彼にとって衝撃であったのは、自転車を漕いでいたのが美しい乳白金の髪をなびかせる女生徒だったことだ。
 正門で自転車から降りたその女生徒は、坂の途中にいる壮介を見て、くすっと笑った。
「んな……やろ……!」
 思わず見とれるほどの美しい顔立ちをした彼女は、これまた優雅な仕草で自転車を運び始め、壮介など眼中にないかのようにその場を後にした。
 あとに残されたのは、最終バスにさえ追い抜かれて遅刻寸前になる、怒りに震えた壮介だけだった。


「てめ、待ちやがれ!」
「なに……またあんたなの?」
 体力坂を上ろうと電動自転車のサドルを跨いだ少女に、壮介が激しく声をかけた。そんな彼を、彼女は呆れた目で見返してくる。
 それもそのはずだ。これでかれこれ5回以上も彼と合いまみえることになっている。
「今度は絶対に負けねぇ。俺のマーキュリー1号の真の力を見せつけてやる!」
「あったま悪そうな名前……ねぇ、ママチャリで電動自転車に勝とうだなんて、本当にできると思ってるの?」
「世の中に不可能はない! というか、んなこた知らん!」
 目の前の直球すぎる少年に、少女――神宮(じんぐう)財閥の一人娘である神宮玲奈(じんぐう れいな)の顔は、さらにもまして馬鹿を見る目になった。イギリス人の母の日本人の父を持つこの完璧なるお嬢さまに追い抜かれたあの日、壮介は彼女にリベンジすることを誓ったのだ。
 無論――玲奈としてはただ単に庶民の横を通り過ぎた程度の認識でしかなく、一方的に壮介が突っかかっていく農民一揆のような図になっている。とはいえ、そこはお嬢さまとてプライドがある。もったいないからという理由だけでママチャリで通うような無謀な庶民に、決して負けるわけにもいかなかった。まあ、そうでなくとも、電動と人力でスペック格差はひどいことになっているのだが。
「行くぜ!」
「はあ……」
 壮介の勝手に決めたスタート地点に並んで、彼の掛け声と同時に二人はペダルを踏み込んだ。
 結果は、壮介の惨敗だった。


 その日は、期末考査だった。
 古典的な考え方の校長がいまだに在籍する深山高校といえども、昨今のプライバシー問題にあやかって、さすがに成績を全て貼りだすような暴挙は行っていない。しかし、成績上位の者は話が別だった。
 良い成績を隠す必要もないだろうと、上位一〇名までは総合成績と順位だけを発表することにしているのである。これは、それによってより良い自己鍛錬に努めることを目的とした、切磋琢磨の意味が込められていた。
 しかし、いかに成績が上位と言えども、決してそこに複雑な気持ちを抱かない者がいないとは言い切れない。
「ほら……またトップだよ」
「やっぱりあれじゃね、寄付金すげーしさ……権力者ってやつだよ、権力者」
 貼りだされた上位成績一覧を見て密かに話す生徒たちの声を、玲奈はささやかながら確かに聞き届けていた。
「ふん……」
 だが、とうに慣れたことだ。いつだって自分という存在は人に疎まれるものである。
 玲奈は、決して不正は行っていない。確かに神宮財閥は深山高校に多額の寄付金を送っている。しかし、それは学生のためを思っている、父の慈善事業というわけだ。自分がこの高校に入ったのはその縁があるのは否定できないが、そこに権力の盾は存在しない。成績も、入学も、全ては自分の力だった。
 しかし、人というものは自分よりも優れた者を煙たがる。小学、中学、そしてこの深山高校も、同じということだ。もはや、弁解する価値すらない。
 そこに、彼女を励ます者はなく、彼女を褒めたたえる者もいない。
 玲奈は気品にあふれた振る舞いで、気丈にその場を後にした。


「今度は負けねぇ!」
「また……? 懲りないのね」
 もはや恒例となりつつある早朝の自転車競走。壮介はがるるると唸るライオンのように、ビシっと玲奈に指を突きつけて予告勝利宣言をする。
「今日は俺が勝つ! そして、電動なんてママチャリの敵じゃねぇってことを教えてやるぜ!」
「それ、何度目の台詞?」
「二十三回目だ!」
 堂々と胸を張って答える壮介に、玲奈の顔がこいつだめだ……といった風に歪んだ。それを見て、更に壮介が憤慨して言い放つ。
「えーい、そんな虫を見るような目で見るな! 今度の俺はマジだ、本気だ、スペクタクルだ! つまり、一度はやられたヒーローが博士の力を借りて新たな力を手に入れたんだ!」
 わめく壮介を眺めながら、玲奈は思った。
 どうして、この男は自分に突っかかって来るのだろう。最初は、ただのバカな男かと思っただけだった。しかし、自分に絡んでくる人は、いるはずもない。お嬢さまというレッテルに向けられるのは、好奇の目やいわれもない謂れもない叱責の声だけだ。誰も、自分と話そうとはしない。
 でも……この男は……
「よっしゃ、行くぜ!」
「え……」
「ほら、ボケっとすんなよ。勝負だ勝負。今度は勝つ!」
「…………」
 玲奈はスタート地点に並んだ。電動自転車をまたぎ、ペダルに足を乗せる。屈んだ前衛姿勢になった壮介が、スタートの合図となる声を張った。
「ゴー!」
 結果は……壮介の惨敗だった。


 がたんをママチャリごと地面に倒れて、仰向けにぜぃぜぃと喘ぐ壮介に、玲奈が近づいてきた。彼女は、電動自転車を丁寧に停めて、壮介の顔を真上から見下ろした。
「ねぇ……どうして、こんなことするの?」
「はぁ?」
「ほら、私……神宮玲奈でしょ? 誰も、話しかけようなんて、しなかったのに」
「…………」
 壮介は、玲奈の言わんとすることが分かったのか。しばらく黙ったまま彼女の目を見つめた。お互いの視線が、ぶつかり合う。改めてじっくりと見た壮介の瞳は、嘘も偽りも湛えていない、深い黒曜石だった。
「知るか」
「え……?」
「んなもん、俺は知らん。俺はお前に勝つ。神宮だろうが玲奈だろうが、そんなもん関係ねぇ。俺は、お前に、勝つんだ」
 言い放たれた言葉に、玲奈は呆然となる。しかし、どこか心の奥では、全てがくだらなく思えるほどに溶けてしまったあとで、淡い気持ちが芽生えていた。
「私に……」
「そうだ。てめぇの事情なんざ知ったことか」
 言い方は乱暴だが、それは、どこか彼なりの優しさがふくまれているような気がした。
「……なぁ、一つ言っていいか?」
「なに?」
「パンツ見えてる」
「…………!?」
 何事もないかのように壮介が口にした一言に、玲奈は顔を真っ赤にしてスカートを抑えた。そして――
「げぶっ!」
「死ねっ! 死ねっ! そして、二度と生き返るな!」
「ば、やめっ! グッ! マジで死ぬっ……!」
 ぐしゃ、ぐしゃ! と、玲奈の足が壮介の顔を幾度となく踏み付ける。優しいと少しでも思ったのが間違いだった! ただエロで馬鹿な男なだけではないかっ!
 一通りバカをボコボコにして、地を踏み付けながら去っていった玲奈。その背中を見つめる壮介は青あざと鼻血の中で、わずかに笑顔を浮かべていた。